・・・数日来の苦悩は跡形も無く消え去った。ために体内新たな活動力を得たごとくに思われたのである。 実際の状況はと見れば、僅かに人畜の生命を保ち得たのに過ぎないのであるが、敵の襲撃があくまで深酷を極めているから、自分の反抗心も極度に興奮せぬ訳に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・浜辺にいってみると、すでに箱は波にさらわれたか、なんの跡形も残っていません。 その後青年は、この話を人にしました。「君は、夢を見たのだ。」と、だれも信じてくれませんでした。そのうちに、彼の青春も去ってしまったのであります。・・・ 小川未明 「希望」
・・・けれども、いつのまにか昔見たような灰色の建物は跡形もありませんでした。のみならず、そこには大きな建物が並んで、烟が空にみなぎっているばかりでなく、鉄工場からは響きが起こってきて、電線はくもの巣のように張られ、電車は市中を縦横に走っていました・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・四 雁次郎横丁――今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ詳しく書きたい気もするのだが、雁次郎横丁は千日前の歌舞伎座の南横を西へはいった五六軒目の南側にある玉突屋の横をはいった細長い路地である。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・私は恥かしくて、顔の上に火が走り、それがちらちら心を焼いて、己惚れも自信もすっかり跡形もなくなってしまった。すると、そのお友達はお饒舌の上に随分屁理屈屋さんで、だから奥さん、あなたは幸福ですよ。そして言うことには、僕の知ってる男で、嘘じゃな・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ しかし、跡形もなかった。焼跡に佇んで、途方に暮れているうちに、ふと細工谷の友人のことを想いだした。「そうだ、今夜あそこで泊めて貰おう」 そう思って、やって来たのだが、裸の娘を拾った今は、もう頼って行けそうにもなかった。 深・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・それでも多くの場合に原形の跡形だけは止めている。それでもしこのように揉んだ痕跡があって、しかも穴の大きさが新しい穴と同じであったら、それはかえってもとの穴がちがった鋏によって穿たれたものだという証拠になる。 私はそういう変形した鋏穴の「・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そうした詩が数千年そのままに伝わって来ていたのがわずかにこの数十年の間に跡形もなく消えてしまうのではないかと疑われる。 グリムやアンデルセンは北欧民族の「民族的記憶」のなごりを惜しんで、それを消えない前によび返してそれに新しい生命を吹き・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫