・・・という事であった。それに対しても吾々若いものは皆激しい意気込を持っていたから、北村君などは「どうも世間の奴等は不健全で可かん」とあべこべに健全を以て任ずる人達を、罵るほどの意気で立っていた。北村君が最初の自殺を企てる前、病いにある床の上に震・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・向うで人に憐を乞うようなものに、あべこべにこっちから憐を乞おうとしたとは。さて老人はその場に立っていながら、忽ち体を背後へ向けた。それは自分の顔に表れる感情の闘を青年に見せまいとしたのである。「ええ、この若い男の胸の苦しいのは、自分の胸の苦・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・あなたはあべこべの方へ来たんですわ。」といいました。「いらっしゃい。こっちへ来ると見えるのよ。」と、女の子はお家のそばの、すこしたかいところへ男の子をつれていきました。そして、金の窓は見えるときがきまっているのだといいました。男の子は、・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶滅茶になった。能登半島。それかも知れぬと思った時に、背後の船室は、ざわめきはじめた。「さあ、もう見えて来ました。」という言葉が、私の耳にはいった。 私は、うんざりした・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・理したくて、まだ空襲警報が解除されていないのに、油紙を切って、こわれた跡に張りつけましたが、汚い裏側のほうを外に向け、きれいなほうを内に向けて張ったので、妻は顔をしかめて、あたしがあとで致しますのに、あべこべですよ、それは、と言いました。私・・・ 太宰治 「春」
・・・ところが、それはあべこべで、地味な普段着も何も焼いてしまって、こんな十六、七の頃に着た着物しか残っていないので、仕方なく着ているのだわ。お金だって、そのとおり、同じことよ。あたしたちには、もう何も無いのよ。いいえ、兄はあんな真面目くさった性・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・純朴な田舎の人たちに都会の成金どもがやたらに札びらを切って見せて堕落させたなんて言うけれども、それは、あべこべでしょう。都会から疎開して来た人はたいてい焼け出されの組で、それはもう焼かれてみなければわからないもので、ずいぶんの損害を受けてい・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・ 引き越したホテルはベルリン市のまるであべこべの方角にある。宿帳へは偽名をして附けた。なんでもホテルではおれを探偵だと思ったらしい。出入をするたびに、ホテルの外に立っている巡査が敬礼をする。 翌日は休日である。議会は休みのはずである・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・科学の目的といえばもともと自然から学ぶということよりほかには何物もないはずであるのに、いつのまにかこの事を忘れ思い上がった末には、あべこべに人間が自然を教えでもするもののような錯覚を起こす。これもおもしろい現象である。こういう思い違いをする・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・一人の哲学者が一言二言いったというだけで人間全体が別種の存在に変わって人間界の方則があべこべになるということは想像ができない。 ついでながら、揺れる電車やバスの中で立っているときの心得は、ひざの関節も足首の関節も柔らかく自由にして、そう・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
出典:青空文庫