・・・ 祖国の安危のために、世界の平和のために、人道と文明のために、たちがたき恩愛をたって、自分の子を供えものにせねばならぬ。マリアはキリストを、乃木夫人は二人の息子を、この要求のために犠牲にしたのだ。初めに出発した生物的、本能的愛と比較する・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 六「あれに連れて行て貰うよりゃ、いっそうら等二人で行く方が安気でえいわい。」ある日じいさんはこう云い出した。「道に迷やせんじゃろうかの。」「なんぼ広い東京じゃとて問うて行きゃ、どこいじゃって行けんことはな・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・彼女は学士が植えて楽む種々な朝顔の変り種の名前などまでもよく暗記んじていた。「高瀬さんに一つ、私の大事な朝顔を見て頂きましょうか」 と学士が言って、数ある素焼の鉢の中から短く仕立てた「手長」を取出した。学士はそれを庭に向いた縁側のと・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・一つの暗記物に堕してしまった。このとき、数学の自由性を叫んで敢然立ったのは、いまのその、おじいさんの博士であります。えらいやつなんだ。もし探偵にでもなったら、どんな奇怪な難事件でも、ちょっと現場を一まわりして、たちまちぽんと、解決してしまう・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・民衆だって、ずるくて汚くて慾が深くて、裏切って、ろくでも無いのが多いのだから、謂わばアイコとでも申すべきで、むしろ役人のほうは、その大半、幼にして学を好み、長ずるに及んで立志出郷、もっぱら六法全書の糞暗記に努め、質素倹約、友人にケチと言われ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・ノオトのおなじ文章を読み、それをみんなみんなの大学生が、一律に暗記しようと努めていた。われは、ポケットから煙草を取りだし、一本、口にくわえた。マッチがないのである。 ――火を借して呉れ。 ひとりの美男の大学生をえらんで声をかけてやっ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・本屋から千葉の住所を諳記して来てかきとって置いたのが去年の八月である。それを役立てることが今迄できなかったけれども。『太宰どん! 白十字にてまつ。クロダ。』大学の黒板にかかれてあったのは、先日であったろうか。『右者事務室に出頭すべし、津島修・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・こいつらは、十年前に覚えた定義を、そのまま暗記しているだけだ。そうして新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めようと試みる。無理だよ、婆さん。所詮、合いませぬて。 自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。半・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・「けさから考えに考えて暗記して来たような、せりふを言うなよ。学問? 教養? 恥ずかしくないかね。」 三木は、どきっとした。われにもあらず、頬がほてった。こいつ、なんでも知っている。「不愉快な野郎だ。よし、相手になってやる。僕は、君みたい・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤー・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫