・・・町の西端に寺ありてゆうべゆうべの鐘はここより響けど、鐘撞く男は六十を幾つか越えし翁なれば力足らず絶えだえの音は町の一端より一端へと、おぼつかなく漂うのみ、程近き青年が別荘へは聞こゆる時あり聞こえかぬる時も多かり。この鐘の最後の一打ちわずかに・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・僕はほとんど自己をわすれてこの雑踏の中をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街の一端に出た。『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・抵当に、一段二畝の畑を書き込んで、其の監査を頼みに、小川のところへ行った時、小川に、抵当が不十分だと云って頑固にはねつけられたことがあった。それ以来、彼は小川を恐れていた。「源作、一寸、こっちへ来んか。」 源作は、呼ばれるまゝに、恐・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・細工場、それは土間になっているところと、居間とが続いている、その居間の端、一段低くなっている細工場を、横にしてそっちを見ながら坐ったのである。仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色が冴えない、気が何か・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 薄筵の一端を寄せ束ねたのを笠にも簑にも代えて、頭上から三角なりに被って来たが、今しも天を仰いで三四歩ゆるりと歩いた後に、いよいよ雪は断れるナと判じたのだろう、「エーッ」と、それを道の左の広みの方へかなぐり捨てざまに抛って了った・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・因て急に鉛筆を執りファプリシュースの一段を草して之を懐にし既にワンセンヌに至りジデローを見るも猶お去気奪湧し血脈狡憤して自ら安んずること能わず。ジデロー一誦して善しと勧めて更に敷演して一論を完結せしむ。ルーソー其言に従う所謂非開化論なり。・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・ N町から中野へ出ると、あののろい西武電車が何時のまにか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返える道がすっかりアスファルトに変っていた。随分長い間あそこに坐っていたのだという事が、こと新しい感じになって帰ってきた。 新宿は特に帰え・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・り経綸と申すが多寡が糸扁いずれ天下は綱渡りのことまるまる遊んだところが杖突いて百年と昼も夜ものアジをやり甘い辛いがだんだん分ればおのずから灰汁もぬけ恋は側次第と目端が利き、軽い間に締りが附けば男振りも一段あがりて村様村様と楽な座敷をいとしが・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・となるは自然の理なり俊雄は秋子に砂浴びせられたる一旦の拍子ぬけその砂肚に入ってたちまちやけの虫と化し前年より父が預かる株式会社に通い給金なり余禄なりなかなかの収入ありしもことごとくこのあたりの溝へ放棄り経綸と申すが多寡が糸扁いずれ天下は綱渡・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・彼女はお富達と手をつなぎ合せ、一旦日比谷公園まで逃れようとしたが、火を見ると足も前へ進まなかった。眼は眩み、年老いたからだは震えた。そしてあの暗い樹のかげで一夜を明そうとした頃は、小竹の店も焼け落ちてしまった。芝公園の方にある休茶屋が、とも・・・ 島崎藤村 「食堂」
出典:青空文庫