・・・田はその昔、ある大名の下屋敷の池であったのを埋めたのでしょう、まわりは築山らしいのがいくつか凸起しているので、雁にはよき隠れ場であるので、そのころ毎晩のように一群れの雁がおりたものです。 恋しき父母兄弟に離れ、はるばると都に来て、燃ゆる・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 由なき戯れとは思いつつも、少女がかれに気づかぬを興あることに思いしか、はた真白の皿に紅の木の葉拾いのせしふるまいのみやびて見えつるか、青年はまた楓の葉を一つ摘みて水に投げたり。木の葉は少女の手もとに流れゆきぬ、少女は直ちに摘まみてまた・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ただ蔵経はかなり豊富だったので、彼は猛烈な勉強心を起こして、三七日の断食して誓願を立て、人並みすぐれて母思いの彼が訪ね来た母をも逢わずにかえし、あまりの精励のためについに血を吐いたほどであった。 十六歳のとき清澄山を下って鎌倉に遊学した・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・彼は、むほん気を起して、何か仕出かして見たくなった。百姓が、鍬や鎌をかついで列を作って示威運動をやったらどんなもんだろう。 彼は、宗保と後藤をさそい出した。三人で藤井先生をもさそいに行きかけた。「おや、お揃いで、どこへ行くんだい?」・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・ 大興駅附近の丘陵や、塹壕には砲弾に見舞われた支那兵が、無数に野獣に喰い荒された肉塊のように散乱していた。和田たちの中隊は、そこを占領した。支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロ・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・五六日は身体が悪いって癇癪ばかり起してネ、おいらを打ったり擲いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済んだが、もう癒ったからまた今日っからは毎日だろう。それもいいけれど、片道一里もあるところをたった二合ずつ買いに遣されて、そして気むずかし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・という委細の談を聞いて、何となく気が進んだので、考えて見る段になれば随分頓興で物好なことだが、わざわざ教えられたその寺を心当に山の中へ入り込んだのである。 路はかなりの大さの渓に沿って上って行くのであった。両岸の山は或時は右が遠ざかった・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・――母親は貧血を起していた。「ま、ま、何んてこの塀! とッても健と会えなくなった……」 仕方なくお安だけが面会に出掛けて行った。しばらくしてお安が涙でかたのついた汚い顔をして、見知らない都会風の女の人と一緒に帰ってきた。その人は母親・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・は大事の色がと言えばござりますともござりますともこればかりでも青と黄と褐と淡紅色と襦袢の袖突きつけられおのれがと俊雄が思いきって引き寄せんとするをお夏は飛び退きその手は頂きませぬあなたには小春さんがと起したり倒したり甘酒進上の第一義俊雄はぎ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・何か為て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何かね。」「はい。」と、男は額に手を宛てた。「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は学生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困っ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫