・・・行一はまだ妻の知らなかったような怒り方をした。「どんなに叱られてもいいわ」と言って信子は泣いた。 しかし安心は続かなかった。信子はしばらくして寝ついた。彼女の母が呼ばれた。医者は腎臓の故障だと診て帰った。 行一は不眠症になった。・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 綱雄といえば旅行先から、帰りがけにここへ立ち寄ると言ってよこしたが、お前はさぞ嬉しかろうなとからかい出す善平、またそのようなことを、もう私は存じませぬ、と光代はくるりと背後を向いて娘らしく怒りぬ。 善平は笑いながら、や、しかし綱雄・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・尾上に雲あり、ひときわ高き松が根に起りて、巌にからむ蔦の上にたなびけり。立ち続く峰々は市ある里の空を隠して、争い落つる滝の千筋はさながら銀糸を振り乱しぬ。北は見渡す限り目も藐に、鹿垣きびしく鳴子は遠く連なりて、山田の秋も忙がしげなり。西はは・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 二郎はすでに家にあらざりき、叔母はわれを引き止めてまたもや数々の言葉もて貴嬢を恨み、この恨み永久にやまじと言い放ちて泣きぬ、されどいずこにかなお貴嬢を愛ずる心ありて恨めど怒り得ぬさまの苦しげなる、見るに忍びざりき。叔母恨むというとも貴・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ただ二人が唄う節の巧みなる、その声は湿りて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲に人影見えず、二人はわれを見たれど意にとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて東屋の前に立ちぬ。姉妹共に色蒼ざめたれど楽しげ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 国内に天変地災のしきりに起こるのは、正法乱れて、王法衰え、正法衰えて世間汚濁し、その汚濁の気が自ら天の怒りを呼ぶからである。「仏法やうやく顛倒しければ世間も亦濁乱せり。仏法は体の如く、世間は影の如し。体曲がれば影斜なり」 それ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・たちまちにして悪声が起こり、瓦石の雨が降った。群衆はしかしあやしみつつ、ののしりつつもひきつけられ、次第に彼の熱誠に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・と、こちらも、それに対して、怒りを以てむくいることは出来なかった。思わず、ニタ/\と笑ってしまった。そういう状態がしばらくつゞいた。 お昼すぎ、飯盒で炊いた飯を食い、コック上りの吉田が豚肉でこしらえてよこしたハムを罐切りナイフで切って食・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・例えばロシアに於ては、日露戦争の後に千九百五年の××が起り、欧洲大戦の終りに近く、千九百十七年の××が起っている。パリー・コムミュンの例をとって見ても、この事実は肯かれる。プロレタリアートは、その時期を××しなければならぬ。「××××戦・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たわけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買いおったナ」と罵られた。金八も馬鹿じゃなかった。ハッと気が付いて、「しまった。向後気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」・・・ 幸田露伴 「骨董」
出典:青空文庫