・・・すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂い、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 焙られるような苦熱からは解放されたが、見当のつかない小僧は、彼に大きな衝撃を与えた。それでいて、その小僧っ子の見てい、感じてい、思ってい、言う言葉が、 彼は車室を見廻した。人は稀であった。彼の後から跟いて入って来た者もなかった・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・それはどんな社会だと云うと、国家枢要の地位を占めた官吏の懐抱している思想と同じような思想を懐抱して、著作に従事している文士の形づくっている一階級である。こう云う文士はぜひとも上流社会と同じような物質的生活をしようとしている。そしてその目的を・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・一人のためには犬は庭へ出て輪を潜って飛ばせて見て楽むもので、一人のためには食物をやって介抱をするものだ。僕の魂の生み出した真珠のような未成品の感情を君は取て手遊にして空中に擲ったのだ。忽ち親み、忽ち疎ずるのが君の習で、咬み合せた歯をめったに・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・幾里の登り阪を草鞋のあら緒にくわれて見知らぬ順礼の介抱に他生の縁を感じ馬子に叱られ駕籠舁に嘲られながらぶらりぶらりと急がぬ旅路に白雲を踏み草花を摘む。実にやもののあわれはこれよりぞ知るべき。はた十銭のはたごに六部道者と合い宿の寝言は熟眠を驚・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・満地雛飛欲越籬 籬高随三四春草路三叉中に捷径あり我を迎ふたんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年此路よりす憐しる蒲公茎短して乳をむかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱別に春あり春あり成長して浪花にあ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それが困るので甚だ我儘な遣り方ではあるが、左千夫、碧梧桐、虚子、鼠骨などいう人を急がしい中から煩わして一日代りに介抱に来てもらう事にした。介抱というても精神を慰めてもらうのであるから、先ずいろいろの話をしてその日を送って行く、その話というの・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・その人は快く承諾して、他の連と相談した上で一人を介抱のために残して置いて出て往た。このさいに自分が同行者の親切なる介抱と周旋とを受けた事は深く肝に銘じて忘れぬ。二時間ばかり待ってようよう釣台が来てそれに載せられて検疫所を出た。釣台には油単が・・・ 正岡子規 「病」
・・・去年の秋、僕が蕎麦団子を食べて、チブスになって、ひどいわずらいをしたときに、あれほど親身の介抱を受けながら、その恩を何でわすれてしまうもんかね。」「そうか。そんなら一つお前さん、ゴム靴を一足工夫して呉れないか。形はどうでもいいんだよ。僕・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・或は他の例を以てするならば元来変態心理と正常な心理とは連続的でありますから人類は須く瘋癲病院を解放するか或はみんな瘋癲病院に入らなければいけないと斯うなるのであります。この変てこな議論が一見菜食にだけ適用するように思われるのはそれは思う人が・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫