・・・そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視ていると、蒼白い少女の顔がありありと眼先に現われて来る、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・中流より石級の方を望めば理髪所の燈火赤く四囲の闇を隈どり、そが前を少女の群れゆきつ返りつして守唄の節合わするが聞こゆ。』 その次が十一月二十六日の記、『午後土河内村を訪う。堅田隧道の前を左に小径をきり坂を越ゆれば一軒の農家、山の麓に・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。「ソぺールニクかな。」「ソぺールニクって何だい?」「ソぺールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」 三・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞんざいに挨拶して迎えた。ぞんざいというと非難するよう・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ さてこれより金崎へ至らんとするに、来し路を元のところまで返りて行かんもおかしからねばとて、おおよその考えのみを心頼みに、人にさえ逢えば問いただして、おぼつかなくも山添いの小径の草深き中を歩むに、思いもかけぬ草叢より、けたたましき羽音さ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・と立帰り行くを見送って、「おえねえ頓痴奇だ、坊主ッ返りの田舎漢の癖に相場も天賽も気が強え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中が可笑い。ハハハ、いい業ざらしだ。と一人笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・杉村楚人冠は、わたくしにたわむれて、「君も先年アメリカへの往きか返りかに船のなかででも死んだら、えらいもんだったがなァ」といった。彼の言は、戯言である。けれども、実際わたくしとしては、その当時が死すべきときであったかも知れぬ。死に所をえなか・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった、杉村楚人冠は私に戯れて、「君も先年米国への往きか帰りかに船の中ででも死んだら偉いもんだったがなア」と言った。彼れの言は戯言である、左れど実際私として・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 帰り際に、「これで俺も安心した。俺の後取りが出来たのだから、卑怯な真似までして此処を出たいなど考えなくてもよくなったからなア!」 と云った。それから一寸間を置いて何気ない風に笑い乍ら、「――そうすればお前の役目も大きくなる・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・市生れた時は同じ乳呑児なり太閤たると大盗たると聾が聞かば音は異るまじきも変るは塵の世の虫けらどもが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山村俊雄と申すふところ育ち団十菊五を島原に見た帰り途飯だけの突合いととある二階へ連れ込・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫