・・・ それは岩へ掻きついては波に持ってゆかれた恐ろしい努力を語るものだった。 暗礁に乗りあげた駆逐艦の残骸は、山へあがって見ると干潮時の遠い沖合に姿を現わしていることがあった。 梶井基次郎 「海 断片」
・・・そしてそれは凩に追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿を掻き消してゆくのであった。 堯はそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還さないで膝の上に抱き上げたり、頸にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬を無理に私の顔に押しつけたり、いろい・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ その後、僕と桂は互いに往来していたが早くもその年の夏期休課が来た。すると一日、桂が僕の下宿屋へ来て、「僕は故郷に帰ってこうかと思う。じつはもうきめているのだ」という意外な言葉。「それはいいけれども君……」と僕はすぐ旅費等のこと・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・あたりを片付け鉄瓶に湯も沸らせ、火鉢も拭いてしまいたる女房おとま、片膝立てながら疎い歯の黄楊の櫛で邪見に頸足のそそけを掻き憮でている。両袖まくれてさすがに肉付の悪からぬ二の腕まで見ゆ。髪はこの手合にお定まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だし・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・と云って、そこにあったストーヴを掻き廻す鉄のデレッキを振りあげた。母は真青になって帰ってきた。 この冬は本当に寒かったの。留置場でもストーヴの側の監房は少しはよかったが、そうでない処は坐ってその上に毛布をかけていても、膝がシン/\と・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ マルは呻くような声を出しながら、主人の方へ忍んで来たが、やがて掻き付いて嬉しげに尻尾を振って見せた。この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。おせんが見えなく成った当座なぞは、家の内を探し歩いて、ツマラナイような顔付をして・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・婦人はもうこれなり焼け死ぬものと見きわめをつけやっと帯や小帯をつないで子どもをしばりつけて川の上へたぐり下し、下を船がとおりかかったらその中へ落すつもりでまっているうちに、つい火気で目がくらんで子どもをはなしてしまい、じぶんも間もなく橋と一・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・今日、両親と別れるのが辛くて歎いている心は、やがて、自分の為になる財産の一つとなるだろうと考えたので、彼は、それをも、スバーに対する信用の一つに加えました。牡蠣についた真珠のように、娘の涙は彼女の価値を高めるばかりでした。彼は、スバーが自分・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから大急ぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目にお辞儀して、もう掻き消すように、いなくなってしまいます。とても、・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫