・・・この町から火事が出て、おりしも吹き募った海風にあおられて、一軒も残らず焼きはらわれてしまいました。いまでも北海の地平線にはおりおり黒い旗が見えます。 小川未明 「黒い旗物語」
・・・何度も建てなおされた家で、ここでは次男に鍛冶屋させるつもりで買ってきて建てたんだが、それが北海道へ行ったもんで、ただうっちゃらかしてあるんでごいす。これでも人がはいってピンと片づけてみなせ、本当に見違えるようになるで……」 久助爺はけろ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・泥棒の噂や火事が起こった。短い日に戸をたてる信子は舞いこむ木の葉にも慴えるのだった。 ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。「大家さんが・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・三月の半ば頃私はよく山を蔽った杉林から山火事のような煙が起こるのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができてい・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ 蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌持てる若者の一人答えて訝しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面作りつ、また急ぎゆけり。右は畑、左は堤の上を一列に老・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 細君は病身であるから余り家事に関係しない。台所元の事は重にお清とお徳が行っていて、それを小まめな老母が手伝ていたのである。別けても女中のお徳は年こそ未だ二十三であるが私はお宅に一生奉公をしますという意気込で権力が仲々強い、老母すら時々・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・先生は故郷で何を為ていたかというに、親族が世話するというのも拒んで、広い田の中の一軒屋の、五間ばかりあるを、何々塾と名け、近郷の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子を対手に一人の老僕に家事を任かして。 この一人の末子は梅・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 見たまえ、鍛冶工の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・てよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち雑りたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚敷きて童と猫と仲よく遊べる、茅屋の軒先には羽虫の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶の鉄砧の音高く響きて夕闇に閃く火花の・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・それなら火事を消すことをさきにするであろう。 しかしこの決め方にも人情にかなわない無理があることを免れない。目の前に自分の子どもの手が霜焼けている。新聞に支那の洪水の義捐の募集が出ている。手袋を買ってやる金を新聞社に送るべきか。リップス・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫