・・・この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・それにもかかわらず私はもともと賤しい家業をした身体ですからと、万事に謙譲であって、いかほど家庭をよく修め男に満足と幸福を与えたからとて、露ほどもそれを己れの功としてこれ見よがしに誇る心がない。今時の女学校出身の誰々さんのように、夫の留守に新・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これからもまたこのイズムに支配せられざるべからずと臆断して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に蔵して、凡てを断ぜんとするものは、升を抱いて高さを計り、かねて長さを量らんとするが如き暴挙で・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・教育といえばおもに学校教育であるように思われますが、今私の教育というのは社会教育及家庭教育までも含んだものであります。 また私のここにいわゆる文芸は文学である、日本における文学といえば先小説戯曲であると思います。順序は矛盾しましたが、広・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・も流行を追うの陋態なく、またことさらに新奇を衒うの虚栄心なく、全く自然の順序階級を内発的に経て、しかも彼ら西洋人が百年もかかってようやく到着し得た分化の極端に、我々が維新後四五十年の教育の力で達したと仮定する。体力脳力共に吾らよりも旺盛な西・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・一時は自分の家に寝起きをしてまで学校へ通ったくらい関係は深いのであるが、大学へはいって以来下宿をしたぎり、四年の課程を終わるまで、とうとう家へは帰らなかった。もっとも別に疎遠になったというわけではない、日曜や土曜もしくは平日でさえ気に向いた・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口の口がないか何か生活の手蔓はないかと朝から晩まで捜して歩いている。天下の秀才を何かないか何かないかと血眼にさせて遊ばせておくのは不経済の話・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・さてその最後の判断と云えば善悪とか優劣とかそう範疇はたくさんないのですが無理にもこの尺度に合うようにどんな複雑なものでも委細御構なく切り約められるものと仮定してかかるのであります。中味は込入っていて眼がちらちらするだけだからせめて締括った総・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・文芸の発達は、その発達の対象として、文芸を歓迎し得る程度の社会の存在を仮定しなければならないのは無論の事で、その程度の社会を造り出す事が、即ち文芸を保護奨励しようという政府の第一目的でなければならない事もまた知れ切った話である。そうしてそれ・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・因果の法則などと云うものは全くからのもので、やはり便宜上の仮定に過ぎません。これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子の虎を造ってその前で慄えているようなものであります。いわゆる因果法と云うものはた・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫