・・・が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしている。もし借着をしていなかったとすれば、啓吉もさほど楽々とは誘惑の外に出られなかったかも知れない。 註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。 処女崇拝 我我は処女を妻とする為にど・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。「さ、お待遠様。」「難有い。」「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいかないし、遣手部屋というのがないんだもの、湯呑みの工面がつきやしません。……いえね、いよいよとなれば・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 他人の頭でものを考えるというのは、つまり他人の着物を借りてまるで自分の着物のような顔をするということで、いいかえれば思想の借着であります。人類はじまって以来、多くの天才は僕らが借りるべき多くの着物を残してくれました。僕らは借着にことを・・・ 織田作之助 「猫と杓子について」
・・・のみならず新たに移った乙の波に揉まれながら毫も借り着をして世間体を繕っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客をして・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華を去って摯実につかなければ、自分の腹の中はいつまで経ったって安心・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ひろ子は、思わずまだ立ったままでいた自分の位置で借り着の重吉の大きい肩に手をおいた。重吉が感じたままを云った素朴な表現は、今二人でこうしていると何とはなしのたのしさにつれ、彼の十二年の獄中生活はどんなに単調な、変化のない時間の連続であったか・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・――その頃はいまと違ってそういう所へ行くには三枚重ねの縮緬の着物を着て振袖で車を並べて行ったもので、一葉も借着をして行く。やっと体裁を繕って、自分の生活や気持とは大変に離れた環境の中で風流らしい歌も詠んで、帰って来ると、自分の心を抑えること・・・ 宮本百合子 「婦人の創造力」
出典:青空文庫