・・・もとよりなにひとつめぼしいものがなかったうちに、バイオリンが目立ちましたのですから、この松蔵にとってはなによりも大事な楽器を奪い去られてしまいました。そして、バイオリンは他のがらくたといっしょに車につけて、どこへか運び去られました。 車・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・必ずしも、それは、高価な楽器たるを要しない。また、それを弾ずる人の名手たるを要しない。無心に子供の吹く笛のごときであってもいゝ。また、林に鳴る北風の唄でもいゝ。小鳥の啼声でもいゝ。時に、私達は、恍惚として、それに聞きとられることがある。そし・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・むしろ、三度の飯を二度に減らしてまで弾かされるヴァイオリンという楽器を、子供心にのろわしく、恨めしく思っていた。父親はよく、「ヴァイオリンは悪魔の楽器だ」 と言い言いしていたが、悪魔とはどんなものであるかは良くは判らないままに、何と・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。 私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。しかしこういうことにはきりがないと見える。この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。 それは、猫の爪を・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、ある戦慄・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・六七の頃から珍らしい容貌佳しで、年頃になれば非常の美人になるだろうと衆人から噂されていた娘であるが、果してその通りで、年の行く毎に益々美しく成る、十七の春も空しく過ぎて十八の夏の末、東京ならば学校の新学期の初まるも遠くはないという時分のこと・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・二十七歳であった。兄の死後も、私は、その戸塚の下宿にいた。二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の最も恐怖していたあの日蔭の仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大袈裟な身振りの文学には、軽蔑を以て接していた。私は・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・要するにこの四拍子の、およそ考え得らるべき最も簡単なメロディーがこの糸車という「楽器」によって奏せられるのである。そのメロディーは実に昔の日本の婦人の理想とされた限りなき忍従の徳を賛美する歌を歌っていたようなものかもしれない。 右手と左・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・曲の各部をリードしている楽器を時々に抽出してその方に吾々の注意を向けてくれる。例えばファゴットの管の上端の楕円形が大きく写ると同時にこの木管楽器のメロディーが忽然として他の音の波の上に抜け出て響いて来るのである。こういうことは作曲者かあるい・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・同じジャズの楽器でもドイツ人の手にかかると、こうも美しくなるものかと感心させられる。あのサキソフォーンでさえも実に味のこまやかな音として聞かれる。アメリカのジャズはなるほどおもしろいと思う時はあっても、自分にはどうも妙な臭みが感ぜられる。た・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫