・・・いずれは、ゆいしょ正しき煙管屋の若旦那。三代つづいた鰹節問屋の末っ子。ちがいますか? くだんの新内、薄化粧の小さな顔をにゅっと近よせ、あたりはばかるひそひそ声で、米屋、米屋、と囁いた。そこへ久保田万太郎があらわれた。その店の、十の電燈のうち・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・服装なんか、どうでもいいものだとは、昔から一流詩人の常識になっていて、私自身も、服装に就いては何の趣味も無し、家の者の着せる物を黙って着ていて、人の服装にも、まるで無関心なのであるが、けれども、やはり、それにも程度があって、ズボン一つで、上・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。もっと裸身を抱いていたい。 銭湯へ行く時には、道も明るかったのに、帰る時には、もう真っ暗だった。燈火管制なのだ。もうこれは、演習でないのだ。心の異様に引きしまるのを覚える。でも、こ・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・ 彼は悠然と腰から煙草入れを取り出し、そうして、その煙草入れに附属した巾著の中から、ホクチのはいっている小箱だの火打石だのを出し、カチカチやって煙管に火をつけようとするのだが、なかなかつかない。「煙草は、ここにたくさんあるからこれを・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 写楽以外の古い人の絵では、人間の手はたとえば扇や煙管などと同等な、ほんの些細な付加物として取り扱われているように見える場合が多い。師宣や祐信などの絵に往々故意に手指を隠しているような構図のあるのを私は全く偶然とは思わない。清長などもこ・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・そして口にする間もない煙管を持ったまま、火鉢の前に立膝をしていた。鼻の下にすくすく生えた短い胡麻塩髭や、泡のたまった口が汚らしく見えた。「忰は水練じゃ、褒状を貰ってましたからね。何でも三月からなくちゃ卒業の出来ねえところを、宅の忰はたっ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・追手に捕まって元の曲輪へ送り戻されれば、煙管の折檻に、またしても毎夜の憂きつとめ。死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二上りも三下りも皆この世は夢じゃ諦めしゃんせ諦めしゃ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ カーライルが麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で逍遥したのはこの庭園である。夏の最中には蔭深き敷石の上にささやかなる天幕を張りその下に机をさえ出して余念もなく述作に従事したのはこの庭園である。星明かなる夜最後の一ぷくをのみ終り・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・できない演説を無理にやるのは全くこのためで、やりつけないものを受け合ったからと云って、けっして恩に着せる訳ではありません。全く大なる光栄と心得てここへ出て来たのである。が繰返して云う通り、演説はできず講義としては纏まらず、定めて聞苦しい事も・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・どれも辮髪を背中にたれ、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、長い煙管を口にくわえて、悲しそうな顔をしながら、地上に円くうずくまっていた。戦争の気配もないのに、大砲の音が遠くで聴え、城壁の周囲に立てた支那の旗が、青や赤の総をびらびらさせて、青竜刀の・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
出典:青空文庫