・・・ことに不思議なるは同人の頸部なる創にして、こはその際兇器にて傷けられたるものにあらず、全く日清戦争中戦場にて負いたる創口が、再、破れたるものにして、実見者の談によれば、格闘中同人が卓子と共に顛倒するや否や、首は俄然喉の皮一枚を残して、鮮血と・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような喚呼が夢中になった彼れの耳にも明かに響いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・フランシスが狂気になったという噂さも、父から勘当を受けて乞食の群に加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスの事になるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑い草にした。クララはそういう雑言を耳に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ間を速疾くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 七「実に、寸毫といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、もっと直截に申せば、狂乱があったのです。 狂気が。」 と吻と息して、……「汽車の室内で隣合って一目・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・乗客は割るるがごとくに響動きぬ。 観音丸は直江津に安着せるなり。乗客は狂喜の声を揚げて、甲板の上に躍れり。拍手は夥しく、観音丸万歳! 船長万歳! 乗合万歳! 八人の船子を備えたる艀は直ちに漕寄せたり。乗客は前後を争いて飛移れり。学生・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・自殺の凶器が、目前に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか。 豪雨の声は、自分に自殺を強いてる声であるのだ。自分はなお自殺の覚悟をきめ得ないので、もがきにもがいているのである。 死ぬときまった病人でも・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・自分は知人某氏を両国に訪うて第二の避難を謀った。侠気と同情に富める某氏は全力を尽して奔走してくれた。家族はことごとく自分の二階へ引取ってくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なくこの日また雨となった。舟で高架鉄道の土堤へ漕ぎつけ、・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・おりから町の子供相手の紙芝居に出かける支度中の長藤君は古谷氏の話を聞いて狂喜しさっそくこの旨を既報“人生紙芝居”のワキ役、済生会大阪府支部主事田所勝弥氏、東成禁酒会宣伝隊長谷口直太郎氏に報告、一同打ち揃って前記古谷氏宅に秋山君を訪れ、ここに・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・三十面をさげてはあのような美しい狂気じみた恋は出来まいと思われるのである。よしんば恋はしても、薄汚なくなんだか気味が悪いようである。私の知人に今年四十二歳の銀行員がいるが、この人は近頃私に向って「僕は今恋をしているのです」と語って、大いに私・・・ 織田作之助 「髪」
出典:青空文庫