・・・「なにせあの時の北さんは、強行軍だったからなあ。」 北さんは淋しそうに微笑んだ。私は、たまらない気持だった。みんな私のせいなんだ。私の悪徳が、北さんの寿命をたしかに十年ちぢめたのである。そうして私ひとりは、相も変らず、のほほん顔。・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・世人はひとしく仙之助氏の無辜を信じていたし、当局でも、まさか、鶴見仙之助氏ほどの名士が、愚かな無法の罪を犯したとは思っていなかったようであるが、ひとり保険会社の態度が頗る強硬だったので、とにかく、再び、綿密な調査を開始したのである。 父・・・ 太宰治 「花火」
・・・招待、とは言っても、ほとんど命令に近いくらいに強硬な誘引である。否も応もなく、私は出席せざるを得なくなったのである。 けれども、野暮な私には、お茶の席などそんな風流の場所に出た経験は生れてから未だいちども無い。黄村先生は、そのような不粋・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ たとえば文士渡辺篤君の家庭の夜の風景を表現するとして、そうしてねずみが騒いだり赤ん坊が泣いたり子供が強硬におしっこを要求したりして肝心の仕事ができぬという事件の推移を表現するにしても、何もあれほどまでに概念的、説明的、型録的に一から十・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・はげしい恐慌に襲われた彼らは自分の身長の何倍、あるいは何十倍の高さを飛び上がってすぐ前面の茂みに隠れる。そうして再び鋏がそこに迫って来るまではそこで落ち付いているらしい。彼らの恐慌は単に反射的の動作に過ぎないか、あるいは非常に短い記憶しか持・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 以上は新春の屠蘇機嫌からいささか脱線したような気味ではあるが、昨年中頻発した天災を想うにつけても、改まる年の初めの今日の日に向後百年の将来のため災害防禦に関する一学究の痴人の夢のような無理な望みを腹一杯に述べてみるのも無用ではないであ・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・第一には電車の車掌なり監督なりが、定員の励行を強行する事も必要であるが、それよりも、乗客自身が、行き当たった最初の車にどうでも乗るという要求をいくぶんでも控えて、三十秒ないし二分ぐらいの貴重な時間を犠牲にしても、次のすいた電車に乗るような方・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・音に伴う一種の振動は胸腔全部に波及している事がさわってみると明らかに感ぜられる。腹腔のほうではもうずっと弱く消されていた。これは振動が固い肋骨に伝わってそれが外側まで感ずるのではないかと思うのである。それにしてもこの音の発するメカニズムや、・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽・・・ 寺田寅彦 「流言蜚語」
・・・時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない。その理由は無論明白な話で、前詳しく申上げた開化の定義・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫