・・・月々郷里から学資を貰って金の心配もなし、この上気楽な境遇はなかった筈であるが、若い心には気楽無事だけでは物足りなかった。きまりきった日々の課業をして暇な時間を無意味に過すと云うような事がむしろ堪え難い苦痛であった。ただ何かしら絶えず刺戟が欲・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・によって撮影を進行させ、出たとこ勝負のショットをたくさんに集積した上で、その中から截断したカッティングをモンタージュにかけて立派なものを作ることも可能であろうが、経済的の考慮から、そういう気楽な方法はいつでもどこでも許されるはずのものではな・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・「どこか静かで気楽なところをと思っているんだけれどね、ここならめったにお客もあがらないし、いいかもしれませんぜ」辰之助も言った。「おいでなさい。離れでのうても、二階は広いから、どこでもかまいません」「そうお決めになったらどうです・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。 ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・しかしボオトは少くとも四、五人の人数を要する上に、一度櫂を揃えて漕出せば、疲れたからとて一人勝手に止める訳には行かないので、横着で我儘な連中は、ずっと気楽で旧式な荷足舟の方を選んだ。その時分にはボオトの事をバッテラという人も多かった。浅草橋・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯の味は。一戸を構えると自から主・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ こうした環境に育った僕は、家で来客と話すよりも、こっちから先方へ訪ねて行き、出先で話すことを気楽にして居る。それに僕は神経質で、非常に早く疲れ易い。気心の合った親友なら別であるが、そうでもない来客と話をすると、すぐに疲労が起ってきて、・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・陽子は、世界が違う気楽な若者と暗闘する岡本の気持がわかるような気がした。 彼等は皆で海岸へ出た。海浜ホテルの前あたりには大分人影があるが、川から此方はからりとしていた。陽炎で広い浜辺が短くゆれている……。川ふちを、一匹黒い犬が嗅ぎ嗅ぎや・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・私が裸足で百姓の後にくっついて畑から畑へと歩き廻っても、百姓は気楽に私に戯談を云い彼の鍬を振った。どんな農家の土間を覗きこんで「それは何?」「何にするの?」ときいても、誰一人少女の無礼は咎めなかった。今もうその暢ような人との交渉は田舎に於て・・・ 宮本百合子 「素朴な庭」
出典:青空文庫