・・・握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。 とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・私は本と首引きだが、本草が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々と谷々へ釣込まれて。 こりゃ途中で暗くならなければ可いが、と山の陰がちと憂慮われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」 ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・「それは何よりの好物です。――ところで、先生、私はこれでもなかなか苦労が絶えないんでございますよ。娘からお聴きでもございましょうが、芸者の桂庵という仕事は、並み大抵の人には出来ません。二百円、三百円、五百円の代物が二割、三割になるんです・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・或る時尋ねると、極細い真書きで精々と写し物をしているので、何を写しているかと訊くと、その頃地学雑誌に連掲中の「鉱物字彙」であった。ソンナものを写すのは馬鹿馬鹿しい、近日丸善から出版されるというと、そうか、イイ事を聞いた、無駄骨折をせずとも済・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 鴎外は甘藷と筍が好物だったそうだ。肉食家というよりは菜食党だった。「野菜料理は日本が世界一である。欧羅巴の野菜料理てのは鶯のスリ餌のようなものばかりだから、「ヴェジテラニヤン・クラブ」へ出入する奴は皆青瓢箪のような面をしている。が・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・殊に蜜柑と樽柿が好物で、見る間に皮や種子を山のように積上げ、「死骸を見るとさも沢山喰ったらしくて体裁が宜くない、」などと云い云い普通の人が一つ二つを喰う間に五つも六つもペロペロと平らげた。 が、贅沢は食物だけであって、衣服や道具には極め・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・此頃のことでした、観行院様にお前は何を仕て居たいかと問われたとき、芋を喰って本を読んで居ればそれで沢山だと答えたそうですが、芋ぐらいが好物であったと見えます、ハハハハ。猶学校友達の中に清川というのがありました。これは少し私より年長で、家は蒔・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ 大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はないのである。高いだろうなあ、そいつは。おれは今迄、鯛の塩焼なんて、たべた事がない。けれども、いまは大いに喜んだふりをしなければならぬ。つらいところだ、畜生め! 「鯛の塩焼と聞いちゃ、た・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・「大好物だ。ここにあるのかい? ごちそうになろう。」「冗談じゃない。お出しなさい。」 キヌ子は、おくめんも無く、右の手のひらを田島の鼻先に突き出す。 田島は、うんざりしたように口をゆがめて、「君のする事なす事を見ていると・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・僕の大好物なんだ。海老の髭には、カルシウムが含まれているんだ。」出鱈目である。 食卓には、つくだ煮と、白菜のおしんこと、烏賊の煮附けと、それだけである。私はただ矢鱈に褒めるのだ。「おしんこ、おいしいねえ。ちょうど食べ頃だ。僕は小さい・・・ 太宰治 「新郎」
出典:青空文庫