・・・温泉で、見知越で、乗合わした男と――いや、その男も実は、はじめて見たなどと話していると、向う側に、革の手鞄と、書もつらしい、袱紗包を上に置いて、腰を掛けていた、土耳古形の毛帽子を被った、棗色の面長で、髯の白い、黒の紋織の被布で、人がらのいい・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・この月二十日の修善寺の、あの大師講の時ですがね、――お宅の傍の虎渓橋正面の寺の石段の真中へ――夥多い参詣だから、上下の仕切がつきましょう。」「いかにも。」「あれを青竹一本で渡したんですが、丈といい、その見事さ、かこみの太さといっちゃ・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・で冤を雪がれた井伊直弼の亡霊がお礼心に沼南夫人の孤閨の無聊を慰めに夜な夜な通うというような擽ぐったい記事が載っていた。今なら女優を想わしめるジャラクラした沼南夫人が長い留守中の孤独に堪えられなかったというは、さもありそうな気もするが、マサカ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・胃の具合いが悪かったのでね、消化しきれなくなって、とうとう固形物を吐いちゃった。おのぞみなら、まだまだ言えるんですけどね、それよりは、このヴァレリイの本をあなたにあげたほうが、僕もめんどうでなくていい。さっき古本屋から買って、電車の中で読ん・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・きっと型も出来、紋切り型の感情描写もあり、敵が貼り紙をつけた固形物のように扱われた場合もあったろう。しかしながら、どうしても無視できない一つの現実がある。それは一九一七年から国内戦にかけての時代に存在したソヴェト作家の数・質と、一九四〇年代・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
出典:青空文庫