・・・はわれわれのうら若い頭に何かしら神秘な雰囲気のようなものを吹き込んだ、あるいは神秘な存在、不可思議な世界への憧憬に似たものを鼓吹したように思われる。日常茶飯の世界のかなたに、常識では測り知り難い世界がありはしないかと思う事だけでも、その・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・自分は教育家でないが、ただ自分一己の経験から推して考えれば、既に初学の時代にこの種の暗示を与える方が却って理解と興味を助長し研究的批評的の精神を鼓吹するのではないかと思う。実際、物理学教科書にある方則と寄宿舎の規則との区別を自覚している生徒・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・しかし執筆の当時には特に江戸趣味を鼓吹する心はなかった。洋行中仏蘭西のフレデリック・ミストラル、白耳義のジョルヂ・エックー等の著作をよんで郷土芸術の意義ある事を教えられていたので、この筆法に倣ってわたくしはその生れたる過去の東京を再現させよ・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直立した形と左右に相対して立つ御手洗の石の柱の整列とは、いずれも幽暗なる月の光の中に、浮立つ・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・文芸の目的が徳義心を鼓吹するのを根本義にしていない事は論理上しかるべき見解ではあるが、徳義的の批判を許すべき事件が経となり緯となりて作物中に織り込まれるならば、またその事件が徳義的平面において吾人に善悪邪正の刺戟を与えるならば、どうして両者・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・優れたフランスの思想家の書いたものには、ショペンハウエルが深くて明徹なスウィスの湖水に喩えたようなものが感ぜられる。私はアンリ・ポアンカレのものなどにそういうものを感ずるのである。 我国では明治の初年は如何にあったか知らないが、大体・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・それはこうだ――何でも露国との間に、かの樺太千島交換事件という奴が起って、だいぶ世間がやかましくなってから後、『内外交際新誌』なんてのでは、盛んに敵愾心を鼓吹する。従って世間の輿論は沸騰するという時代があった。すると、私がずっと子供の時分か・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・主人誇りがにこは湖水の産にしてここの名物なりという。名を問えば赤腹となん答えける。面白き秋の名なりけり。これより山を下るに見渡す限り皆薄なり。箱根の関はいずちなりけんと思うものから問うに人なく探るに跡なし。これらや歌人の歌枕なるべきとて・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・私に云うと止められるものだから、まるで狡いわ。ただ行って参りますって云うんですもの」 さほ子の声が次第に怪しく鼻にかかり、口先の慰撫が困難になって来ると、彼は、そろそろ自分の所業を後悔し出した。「いや全く、いくらはいはい云おうとも、・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 狡い、ひひという笑いかたで太い首をすくませた。「マァ、この懸け声がどの位実現されるか見ものだね」 留置場へ降りがけ、教習室をとおりぬけたら正面の黒板に、 不逞鮮人取締 憲兵隊との連携と大書してある。 い・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫