・・・いうならば所謂坂田の将棋の性格、たとえば一生一代の負けられぬ大事な将棋の第一手に、九四歩突きなどという奇想天外の、前代未聞の、横紙破りの、個性の強い、乱暴な手を指すという天馬の如き溌剌とした、いやむしろ滅茶苦茶といってもよいくらいの坂田の態・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・ 倫理学は人間行為の指導原理と法則とを与えようとするのみならず、また学者の個性をも表現する。コーヘンの『純粋意志の倫理学』と、ギヨーの『義務と制裁のない倫理学』とを比較するならば、その個性の対比は文芸作品の個性の差異の如くいちじるしい。・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・それによって生活の充実と向上とまた個性の発展とをはかるべきである。実際今日においては職業婦人は有閑婦人よりも、その生命の活々しさと、頭脳の鋭さと、女性美の魅力さえも獲得しつつあるのである。われわれの日常乗るバスの女車掌でさえも有閑婦人の持た・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・彼にはうしろからの呼声が耳に入らなかった。ほんとに馬鹿なことをしたものだ。もうポケットにはどれだけが程も残っていやしない!「近松少佐!」「大隊長殿、中佐殿がおよびです。」 副官が云った。 耳のさきで風が鳴っていた。イワン・ペ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・沈まり返った屋外の方で、高瀬の家のものは誰の声とは一寸見当のつかない呼声を聞きつけた。「高瀬君――」「高瀬、居るか――」 声は垣根の外まで近づいて来た。「ア」 と高瀬は聞耳を立てて、そこにマゴマゴして震えている妻の方へ行・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。高い個性を創るのだ。渡り鳥には、それができないのです。」 日が暮れかけていた。青扇は団扇でしきりに臑の蚊を払っていた。すぐ近くに藪があるので、蚊も多いのである。「けれど、無性格は天才の特質だと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・青年の没個性、自己喪失は、いまの世紀の特徴と見受けられます。以下、必ず一読せられよ。刺し殺される日を待って居る。私は或る期間、穴蔵の中で、陰鬱なる政治運動に加担していた。月のない夜、私ひとりだけ逃げた。残された仲間は、すべて、いのちを失った・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・花は、万朶のさくらの花でも、一輪、一輪、おそろしいくらいの個性を持って居ります。私は、いま、ベッドに腹這いになって、鉛筆をなめなめ、考え考えして、一字、一字、書きすすめ、もう、死ぬるばかり苦しくなって、そうして、枕元の水仙の花を見つめて居り・・・ 太宰治 「古典風」
・・・「尤も生徒の個性的傾向は無論考えなければならない。通例そのような傾向は、かなりに早くから現われるものである。それだから自分の案では、中等学校の三年頃からそれぞれの方面に分派させるがいいと思う。その前に教える事は極めて基礎的なところだけを・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・無理な類推ではあるが人間の個性も、やっぱり何かしらひと花咲かせてみないと充分にその存在がはっきりしない、あれと同じだというような気がするのである。 去年の七月にはあんなにたくさんに池のまわりに遊んでいた鶺鴒がことしの七月はさっぱり見えな・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
出典:青空文庫