・・・ 私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。 側へ寄って見ると、そこには小屋掛もしなければ、日除もしてないで、唯野天の平地に親子らしいお爺さんと男の子が立っていて・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・その時のことを、あとでお君が、「なんやこう、眼エの前がぱッと明うなったり、真黒けになったりして、あんたの顔こって牛みたいに大けな顔に見えた」 と言って、軽部にいやな想いをさせたことがある。軽部は小柄なわりに顔の造作が大きく、太い眉毛・・・ 織田作之助 「雨」
・・・十年もそれが続いたから、母屋の嫂もさすがに、こんなことでこの先どないなるこっちゃら、近所の体裁も悪いし、それに夫婦喧嘩する家は金はたまらんいうさかいと心配して、ある日、御寮人さんを呼寄せて、いろいろ言い聴かせた末、黒焼でも買いイなと、二十円・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」 斯う呶鳴るように云った三百の、例のしょぼ/\した眼は、急に紅い焔でも発しやしないかと思われた程であった。で彼はあわてて、「そうですか。わかりました。好ござんす、それでは十日には・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして、出かけると急に亭主がこっちを向いて、「まだ降ってるだろう、やんでから行きな。」「たいしたことはあるまい。みなさん、どうもありがとう」と、穴だらけの外套を頭からかぶって外へ出た。もう晴りぎわの小降りである。ともかくも路地をたど・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・傍の卓子にウイスキーの壜が上ていてこっぷの飲み干したるもあり、注いだままのもあり、人々は可い加減に酒が廻わっていたのである。 岡本の姿を見るや竹内は起って、元気よく「まアこれへ掛け給え」と一の椅子をすすめた。 岡本は容易に坐に就・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・なに、かまうこっちゃねえだ」 呉清輝は、実際、かげにかくれてこそこそと、あぶない仕事をやるために産れてきたような男だった。してはならぬ、ということがある。呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・「ロシア人をいじめて、泣いたり、おがんだりするのに、無理やり引っこさげて来るんだからね、――悪いこったよ、掠奪だよ。」 彼は嗄れてはいるが、よくひびく、量の多い声を持っていた。彼の喋ることは、窓硝子が振える位いよく通った。 彼は・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・――こっちの冬はそれに比べると、故里の春先きのようなものだ。」と云ったそうだね。弟は困って、又何べんも片方の眼だけをパチ/\させて、「故里の方はとても嵐だって!」と繰りかえしたところが、お前が編笠をいじりながら、突然奇妙な顔をして、「お前片・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・、間もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向うから火の子がふりかぶさって来るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもにげにげするうちに、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
出典:青空文庫