・・・ 道の両側はいつのまにか、ごみごみした町家に変っている。塵埃りにまみれた飾り窓と広告の剥げた電柱と、――市と云う名前はついていても、都会らしい色彩はどこにも見えない。殊に大きいギャントリイ・クレエンの瓦屋根の空に横わっていたり、そのまた・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・それとも保吉はこの句さえ見れば、いつも濡れ仏の石壇のまわりにごみごみ群がっていた鳩を、――喉の奥にこもる声に薄日の光りを震わせていた鳩を思い出さずにはいられないのである。 鑢屋の子の川島は悠々と検閲を終った後、目くら縞の懐ろからナイフだ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・踏切りの近くには、いずれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであろう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺っていた。やっと隧道を出たと思う――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・横須賀の町は山々の中にもごみごみと屋根を積み上げていた。それは日の光を浴びていたものの、妙に見すぼらしい景色だった。「お前の上陸は許可しないぞ。」「はい。」 SはA中尉の黙っているのを見、どうしようかと迷っているらしかった。が、・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛に一眸の北の方、目の下、一雪崩に崕になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。 ト斜に、がッくりと窪んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家、農家が入乱れて、樹立がくれに、小流を包んで、ずっと遠く続いたのは、山中道で、そこは雲の加減で、陽が薄赤く颯と射す。 色も空も一淀みする、この日溜りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅の葉が柵むように、・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・仕出屋があったり、間口の広い油屋があったり、赤い暖簾の隙間から、裸の人が見える銭湯があったり、ちょうど大阪の高台の町である上町と、船場島ノ内である下町とをつなぐ坂であるだけに、寺町の回顧的な静けさと、ごみごみした市井の賑かさがごっちゃになっ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・そしてちょっと考えて、神楽坂の方へとぼとぼ……、その坂下のごみごみした小路のなかに学生相手の小質屋があり、今はそこを唯一のたのみとしているわけだが、しかし質種はない。いろいろ考えた末、ポケットにさしてある万年筆に思い当り、そや、これで十円借・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。F屋喫茶店にいた文学・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。 災後、新に開かれ・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫