・・・岩淵の渡場手前に、姉の忰が、女房持で水呑百姓をいたしておりまして、しがない身上ではありまするけれど、気立の可い深切ものでございますから、私も当にはしないで心頼りと思うております。それへ久しぶりで不沙汰見舞に参りますと、狭い処へ一晩泊めてくれ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 名前はおかねだが、彼女はおから以外の食物を買うて帰ったためしがないというくらい、貧乏していた。界隈の娘に安い月謝で三味線を教えてくらしていたがきこえて来るのは、年中、「高い山から谷底見れば」ばかり、つまりは、弟子が永続きしないのだった・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・「これまで外国に来て、著作をしたという人のためしがない。」と言って、ある旅行者に笑われたこともある。でも私は国を出るころから思い立っていた著作の一つだけは、どうにかしてそれを書きあげたいと思ったが、とうとう草稿の半ばで筆を投げてしまった。国・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 丁度その時、辮髪の支那兵たちは、物悲しく憂鬱な姿をしながら、地面に趺坐して閑雅な支那の賭博をしていた。しがない日傭人の兵隊たちは、戦争よりも飢餓を恐れて、獣のように悲しんでいた。そして彼らの上官たちは、頭に羽毛のついた帽子を被り、陣営・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・悪口を云ったためしがないじゃないか。本当のところを云えよ! つまらないかい? 事実。―― ――そりゃ数のなかだもの、つまらないんだって、ばからしいのだってあるさ。功績ある共産党の中にだって一人一人見ればいやな奴がいるのと同じこった。・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・全体が、生活の目標として、努力の目標としている点を子供にも理解させて、子供が大人の生活と同じに、自分が社会の一員として感ずるように、脚本を通して教育して行くということと、それから主題の扱いかたに全然欺しがない。子供を甘やかしていない。勿論分・・・ 宮本百合子 「ソヴェト・ロシアの素顔」
・・・従って、文学批評の貧困が云われる時代に、文芸作品が文学の真の発展の意味で興隆しているという現象は、社会的にあったためしがない。プロレタリア文学を歴史の上に顧みて、或る人は今日では殆ど十年を経たあの時代には、作品そのものより批評、評論の活躍が・・・ 宮本百合子 「地の塩文学の塩」
・・・朝から晩まで流しの上には、よごれものがたまって新らしい茶碗の縁が三日と無疵で居たためしがないとなあ、三十九にもなって何てこったし、あまり昼、夫婦づれで、仮寝ばかりしているからだなっし、貴方。 それが、裏庭にある小学校長の家で妻君が庭・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 運動がなく、全体的な目じるしがないのだから、プロレタリア文学におけるプロレタリア性とか、プロレタリア作家が自分から自分の中に確認しようとするプロレタリア・インテリゲンツィア性というものも、とかくその人々の主観によって色づけられ、評価さ・・・ 宮本百合子 「プロ文学の中間報告」
出典:青空文庫