・・・の政論を掲げて一代の指導者たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたので、わたくしも能く之を見おぼえている。家は軽快なる二・・・ 永井荷風 「上野」
・・・されば日常の道徳も不知不識の間に儒教に依って指導せられることが少くない。 儒教は政治と道徳とを説くに止って、人間死後のことには言及んでいない。儒教はそれ故宗教の域に到達していないものかも知れない。しかしこの問題については、わたくしは確乎・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生は・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・ただ「自分の指導を受けた学生によろしく」とあるべきのを、「自分の指導を受けた先生によろしく」と校正が誤っているのだけはぜひ取り消しておきたい。こんなまちがいの起こるのもまた校正掛りを忙殺する今度の戦争の罪かもしれない。・・・ 夏目漱石 「戦争からきた行き違い」
・・・その小説について、斯道に関係ある我々の見逃し能わざる特殊の現象が毎月刊行の雑誌の上に著るしく現れて来た。それは全体の小説が芸術的作品として、或る水平に達しつつあるという事実である。またその水平が年々に高くなりつつあるという事実である。この二・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・ 我国民の思想指導及び学問教育の根本方針は何処までも深く国体の本義に徹して、歴史的現実の把握と世界的世界形成の原理に基かねばならない。英米的思想の排撃すべきは、自己優越感を以て東亜を植民地視するその帝国主義にあるのでなければならない・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待っていたねえ、向うの・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標のところまで行って見よう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人の頬の赤いチョッキだけ着た十七ばかりの子どもが、何だかわたくしのらしい雌の山羊の首に帯皮をつけて、はじを持っ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・もう白い髪をした指導者が一人一人の側によって仕事ぶりを親切に眺めていたがやがて壁にかかっている時計を見上げると、「さア子供達、腰かけた!」と響のよい年よりの声で云った。生徒たちは仕事机の下にバネじかけでしまってある腰かけを引き出し、・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・ 明治の開化期、日本にはじめて新聞が発刊された時分、それはどんなに新鮮な空気をあたりに息吹かせながら、封建と開化とが奇妙にいりまじって錯雑した当時の輿論を指導したことだったろう。論説を書いた人々は社会の木鐸であるというその時分愛好された・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
出典:青空文庫