・・・酔い癖の浄瑠璃のサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(豚の皮身を味噌で煮が好きで、ドテ焼さんと渾名がついていたくらいだ。 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へし・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・松が小島、離れ岩、山は浮世を隔てて水は長えに清く、漁唱菱歌、煙波縹緲として空はさらに悠なり。倒れたる木に腰打ち掛けて光代はしばらく休らいぬ。風は粉膩を撲ってなまめかしき香を辰弥に送れり。 参りましょう。親父ももう帰って来る時分でございま・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息腰を下ろすに下ろしよ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・この三つのものの正当なる権利の要求を、如何に全人として調和統合するかが結局倫理学の課題である。 三 文芸と倫理学 人生の悩みを持つ青年は多くその解決を求めて文芸に行く。解決は望まれぬまでも何か活きた悩みに触れてもらい・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・それは正統派の恋愛論の核心をなすところの、あの「二つのもの一つとならんとする」願望のあらわれである。ペーガン的恋愛論者がいかに嘲っても、これが恋愛の公道であり、誓いも、誠も、涙も皆ここから出てくるのだ。二人の運命を――その性慾や情緒をだけで・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・われわれも学生時代に課業のほか、寄宿舎の消灯後にも蝋燭をともして読書したものである。深い、一生涯を支配するような感激的印銘も多くそうした読書から得たのである。西田博士の『善の研究』などもそうして読んだ。とぼとぼと瞬く灯の下で活字を追っている・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・又、イギリスに対して若し××が戦争を始めるとしたら、それは正当な、必要な戦争である。抑圧者、搾取者に対する、被圧迫階級の戦争には、吾々は同感せざるを得ない。そしてその勝利を希わざるを得ない。 二 現在、吾々の眼前に・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・せっかくだんだんと彫上げて行って、も少しで仕上になるという時、木の事だから木理がある、その木理のところへ小刀の力が加わる。木理によって、薄いところはホロリと欠けぬとは定まらぬ。たとえば矮鶏の尾羽の端が三分五分欠けたら何となる、鶏冠の蜂の二番・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然になって抽斗を開け、小刀と鰹節とを取り出したる男は、鰹節の亀節という小きものなるを見て、「ケチびんなものを買っときあがる。と独言しつつそこらを見廻して、やがて・・・ 幸田露伴 「貧乏」
出典:青空文庫