・・・意義もない、幸福もない、苦痛もない、慈愛もない、憎悪もない。死。阿房ものめが。好いわ。今この世の暇を取らせる事じゃから、たった一度本当の生活というものを貴ばねばならぬ事を、其方に教えて遣わそう。あっちに行って黙って立っていてここの処を好・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・そこであの赤眼のさそりが、せわしくまたたいて東から出て来、そしてサンタマリヤのお月さまが慈愛にみちた尊い黄金のまなざしに、じっと二人を見ながら、西のまっくろの山におはいりになった時、シグナル、シグナレスの二人は、祈りにつかれてもう眠っていま・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・ 女の人間らしい慈愛のひろさにしろ、それを感情から情熱に高め、持続して、生活のうちに実現してゆくには巨大な意力が求められる。実現の方法、その可能の発見のためには、沈着な現実の観察と洞察とがいるが、それはやっぱり目の先三寸の態度では不可能・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ 昔の慈愛ふかい両親たちは、その娘が他家へ縁づけられてゆくとき、愈々浮世の波にもまれる始まり、苦労への出発というように見て、それを励したり力づけたりした。その時分苦労と考えられていたことの内容は、女はどうせ他家の者とならなければならない・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
・・・彼らがひざまずいて祈りはじめ哀号しはじめると、皇帝ニコライは慈愛深い父たる挨拶として無警告の一斉射撃を命じた。灰色の官給長外套を着たプロレタリアートの子が命令の意味を理解せず山羊皮外套を着たプロレタリアートの子を射った。「血の日曜日」である・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・と、率直に、慈愛を以て、ひそかに告げられるのではない。 実に、厭味、苦しめる暗示で、大勢の中で、神経的に云われる。云われた者は、教えられた感謝より、いつも、苦々しい悪感、恥かしさ、敵慨心を刺戟されるように扱われるのである。 中に・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・なかなか烈風吹きすさぶ新春です何卒御自愛下さい。宮本百合子 一九四三年九月八日〔大森区新井宿一ノ二三四五 高根包子宛 本郷区林町二一より〕 先日は山からのおたよりありがたく頂きました。お忙しくてもいつも御元気で本当に何よ・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・そしていつも論争者の自愛心が私を焦立たせる。」 ここでまことに面白いことは、この夜プレハーノフの論文を朗読し、漫罵の代りに本質的な反駁をやることは出来ないかと特に注意した一人の青年フェドセーエフが、喧々囂々の中で苦しそうにしているゴーリ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・、いつも論争者の自愛心が彼をいら立たせるのであった。 今日の歴史によって顧れば、ゴーリキイにとって苦しかったこの一八八〇年代の後半は、ちょうどロシアの解放運動が一転期に際した時代であった。以前の「人民の意志」団が分裂して、新たな「労働解・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
・・・またすべての愛は自愛に帰納せられた。人を愛する心持ちがどんなに強く自分の内に起って来ようとも、それを自愛まで持って行かなければ満足が出来なかった。 この時自分の解していた「自己肯定」より見れば自分のこの傾向は至極徹底的であった。すべての・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫