・・・ただ庭先から川向うを見ると、今は両国停車場になっている御竹倉一帯の藪や林が、時雨勝な空を遮っていたから、比較的町中らしくない、閑静な眺めには乏しくなかった。が、それだけにまた旦那が来ない夜なぞは寂し過ぎる事も度々あった。「婆や、あれは何・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 巫女 年をとった巫女が白い衣に緋の袴をはいて御簾の陰にさびしそうにひとりですわっているのを見た。そうして私もなんとなくさびしくなった。 時雨もよいの夕に春日の森で若い二人の巫女にあったことがある。二人とも十二、三で・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒を下しました。もう鼠色のペンキの剥げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・ 森も畑も見渡すかぎり真青になって、掘立小屋ばかりが色を変えずに自然をよごしていた。時雨のような寒い雨が閉ざし切った鈍色の雲から止途なく降りそそいだ。低味の畦道に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から真菰が長く・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 御手洗の音も途絶えて、時雨のような川瀬が響く。…… 八「そのまんま消えたがのう。お社の柵の横手を、坂の方へ行ったらしいで、後へ、すたすた。坂の下口で気が附くと、驚かしやがらい、畜生めが。俺の袖の中から、皺び・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ と織次は屹と腕を拱んだ。「私が学校で要る教科書が買えなかったので、親仁が思切って、阿母の記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻して、蔵っといてくれた。その絵の事だよ。」 時雨の雲の暗い晩、寂しい水菜で夕餉が済む、と箸も・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。「仲よくしましょう、さからわないで。」 私はちょっかいを出すように、面を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺どののような形を、更めて静に歩行いた。――真一文字の日・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩のようにて欲くもあらねど、吠えても嗅いでみても恐れぬが癪に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯かす。時雨しとしとと降りける夜、また出掛けて、ううと唸って牙を剥き、眼を光らす。・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・虫歯封じに箸を供うる辻の坂の地蔵菩薩。時雨の如意輪観世音。笠守の神。日中も梟が鳴くという森の奥の虚空蔵堂。―― 清水の真空の高い丘に、鐘楼を営んだのは、寺号は別にあろう、皆梅鉢寺と覚えている。石段を攀じた境内の桜のもと、分けて鐘楼の礎の・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に似た、その猪の鼻と言おう、中空に抽・・・ 泉鏡花 「古狢」
出典:青空文庫