・・・――時候は覚えていない。小学校へ通う大川の橋一つ越えた町の中に、古道具屋が一軒、店に大形の女雛ばかりが一体あった。ろうたけた美しさは註するに及ぶまい。――樹島は学校のかえりに極って、半時ばかりずつ熟と凝視した。 目は、三日四日めから、も・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 刑務所の書信用紙というのは赤刷りの細かい罫紙で、後の注意という下の欄には――手紙ノ発受ハ親類ノ者ニノミコレヲ許スソノ度数ハ二カ月ゴトニ一回トス賞表ヲ有スル在所人ニハ一回ヲ増ス云々――こういった事項も書きこまれてある。そして手紙の日づけ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ちょうど、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』であった。『・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・コウ、もう煮奴も悪くねえ時候だ、刷毛ついでに豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面あすることはねえ、女ッ振が下がらあな。「おふざけでないよ、寝ているかとおもえば眼が覚めていて、出しぬけに床ん・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・見つかるものか。時効のかかったころ、堂々と名乗り出るのさ。あなた、もてますよ。けれどもこれは、飛行機の三日間にくらべると、十年間くらいの我慢だから、あなたがた近代人には鳥渡ふむきですね。よし。それでは、ちょうどあなたにむくくらいのつつましい・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・原稿もそろそろ売れて来るようになったので、書きなぐらないように書きためて大きい雑誌に送ること重要事項である。君は世評を気にするから急に淋しくなったりするのかもしれない。押し強くなくては自滅する。春になったら房州南方に移住して、漁師の生活など・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・われは隣組常会に於いて決議せられたる事項にそむきし事ただの一度も無之、月々に割り当てられたる債券は率先して購入仕り、また八幡宮に於ける毎月八日の武運長久の祈願には汝等と共に必ず参加申上候わずや、何を以てか我を注意人物となす、名誉毀損なり、そ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、また教材として自由にこなすだけの力はある。しかしそれを面白くする力がない。これがほとんどいつでも禍の源になるのである。先生が退屈の呼吸を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。教える能力というのは面・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・ 時候は夏でも海抜九百メートル以上にはもう秋が支配している。秋は山から下りて来るという代りに、秋は空中から降りて来るともいわれるであろう。 本文中に峰の茶屋への途中、地表から約一メートルに黒土の薄層があって、その中に枯れた木の根・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・何よりもことしは時候が著しくおくれているらしく思われた。たとえば去年は八月半ばにたくさん咲いていた釣舟草がことしの同じころにはいくらも見つからなかった。そうして九月上旬にもう一度行ったときに、温泉前の渓流の向こう側の林間軌道を歩いていたらそ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
出典:青空文庫