・・・お松は頻りに辞退したのを、母は無理にお松にやって、自分をおぶった。お松はそれでも暫くそこに立っていたようであった。 それきり妙に行違って、自分はお松に逢わなかった。それでも色のさえない元気のない面長なお松の顔は深く自分の頭に刻まれた。・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・私は業を煮やして、あの小説は嘘を書いただけでなく、どこまで小説の中で嘘がつけるかという、嘘の可能性を試してみた小説だ、嘘は小説の本能なのだ、人間には性慾食慾その他の本能があるが、小説自体にももし本能があるとすれば、それは「嘘の可能性」という・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 無論、お前もそのことは百も承知してか、ともかく宣伝が第一だと、嘘八百の文句を並べたチラシを配るなど、まあ勢一杯に努めていたというわけだが、そのチラシ自体がわるかった。 おれもお前に貰って、見たが、版がわるい上に、紙も子供の手習いに・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・方法自体が既に生産を停めているのだからお話にならんよ」 二人はそこで愉快そうに笑った。その愉快そうな声が新吉には不思議だった。しかし、新吉はもうそんな世間話よりも、さっきの女の方に関心が傾いていた。 あんな電報を打った女の亭主は、余・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・帰って雇人に呉れてやり、お前行けと言うと、われわれの行くところでないと辞退したので、折角七円も出したものを近所の子供の玩具にするのはもったいない、赤玉のクリスマスいうてもまさか逆立ちで歩けと言わんやろ、なに構うもんかと、当日髭をあたり大島の・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・またなんという画家の手に成ったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば円顔の優等生のような顔をしているといったふうの、挿画のこと。「何とか権所有」それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮に極めて読んで・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 自体拙者は気に入らないので、頻りと止めてみたが、もともと強情我慢な母親、妹は我儘者、母に甘やかされて育てられ、三絃まで仕込まれて自堕落者に首尾よく成りおおせた女。お前たちの厄介にさえならなければ可かろうとの挨拶で、頭から自分の注意は取・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・彼によれば、それ自体最高の価値を持ったものは個性であり、個性は何ものの手段ともすべからざるものである。個性の発展は内生活の充実により、この過剰が義務であって、強制や、外的必然ではない。個性を発展せしめるためには狭隘な孤立的自己に閉じこもらず・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 過度の書物依頼主義にむしばまれる時は創造的本能をにぶくし、判断力や批判力がラディカルでなくなり、すべての事態にイニシアチブをとって反応する主我的指導性が萎えて行く傾向がある。 知識の真の源泉は生そのものの直接の体験と観察から生まれ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗の番茶をいかにもゆっくりと飲乾す、その間主人の方を見ていたが、茶碗を下へ置くと、「君は今日最初辞退をしたネ。」と軽く話し出した。「エエ。」と主人は答えた。「なぜネ。」・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫