・・・温室の白塗りがキラキラするようでその前に二三人ふところ手をして窓から中をのぞく人影が見えるばかり、噴水も出ていぬ。睡蓮もまだつめたい泥の底に真夏の雲の影を待っている。温室の中からガタガタと下駄の音を立てて、田舎のばあさんたちが四五人、きつね・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ 二 睡蓮を作っている友人の話である。この花の茎は始めにはまっすぐに上向きに延びる。そうしてつぼみの頭が水面まで達すると茎が傾いてつぼみは再び水中に没する。そうして充分延び切ってから再び頭をもたげて水面に現われ、・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・そうして水練の上手な兵士を三十人選抜して、秋山大尉を捜させようと云うんだ。その人選のなかへ、私のとこの忰も入ったのさね。」 吉兵衛さんの顔が、紅く火照って来た。そして口にする間もない煙管を持ったまま、火鉢の前に立膝をしていた。鼻の下にす・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月を大川端の水練場に送った事である。 自分は今日になっても大川の流のどの辺が最も浅くどの辺が最も深く、そして上汐下汐の潮流がどの辺において最も・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。世・・・ 永井荷風 「向島」
・・・舟は波に浮ぶ睡蓮の睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。蕚傾けて舟を通したるあとには、軽く曳く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。 舟は杳然として何処と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ そして、台の左右には、まるで掌に乗れそうな体のお爺さんが二人、真赤な地に金糸で刺繍をした着物を着、手には睡蓮の花を持って立っています。あたりには、龍涎香を千万箱も開けたような薫香に満ち、瑪瑙や猫眼石に敷きつめられた川原には、白銀の葦が・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫