・・・慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈そうな膝を重ねていた。「ええ、すぐに見えるそうです。」「じゃその方が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」 谷村博士はこう云いながら、マロック革・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿の本の人麻呂と云う詩人があります。その男の作った七夕の歌は、今でもこの国に残って・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・己は第一に、妙な征服心に動かされた。袈裟は己と向い合っていると、あの女が夫の渡に対して持っている愛情を、わざと誇張して話して聞かせる。しかも己にはそれが、どうしてもある空虚な感じしか起させない。「この女は自分の夫に対して虚栄心を持っている。・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・本間さんはとうとう思い切って、雨が降るのに荷拵えが出来ると、俵屋の玄関から俥を駆って、制服制帽の甲斐甲斐しい姿を、七条の停車場へ運ばせる事にした。 ところが乗って見ると、二等列車の中は身動きも出来ないほどこんでいる。ボオイが心配してくれ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっきらぼうにこう云った。「何か御用ですか? お父さん。」「うん。まあ、そこにおかけ。」 ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・それも金釦の制服を着た保吉一人を例外に、あとはことごとく紺飛白や目くら縞の筒袖を着ているのである。 これは勿論国技館の影の境内に落ちる回向院ではない。まだ野分の朝などには鼠小僧の墓のあたりにも銀杏落葉の山の出来る二昔前の回向院である。妙・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ちょうどそれと同じように、無線電信や飛行機がいかに自然を征服したと云っても、その自然の奥に潜んでいる神秘な世界の地図までも、引く事が出来たと云う次第ではありません。それならどうして、この文明の日光に照らされた東京にも、平常は夢の中にのみ跳梁・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・彼は征服した敵地に乗り込んだ、無興味な一人の将校のような気持ちを感じた。それに引きかえて、父は一心不乱だった。監督に対してあらゆる質問を発しながら、帳簿の不備を詰って、自分で紙を取りあげて計算しなおしたりした。監督が算盤を取りあげて計算をし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・しかしやがて疲労は凡てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。 遠慮会釈もなく迅風は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆のような闇が大河の如く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、ある・・・ 泉鏡花 「外科室」
出典:青空文庫