・・・ お前はおかね婆さんの助手で、もぐさをひねったり、線香に火をつけて婆さんに渡したり、時々、「――はいッ!」 と、おかしげな気合を掛けたり、しまいには数珠を揉んで、「――南無妙法蓮華経!」 と、唱えて見たり、必要以上にきり・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・遅刻はするし、酔っぱらっては来るし、もうこんな人とは結婚なんかするものかと思ったが、そう思ったことがかえって気が楽になったのか、相手が口を利かぬ前にこちらから物を言う気になり、大学では何を専攻されましたかと訊くと、はあ、線香ですか、好きです・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・婆さんはあたしゃ毛嫌いされていたわけじゃないと、すぐ旅ごしらえして、鶴さんのところへ行って選鉱婦をするのだと出掛けようとすると、三人は、じゃ俺たちも工場へ帰ろう。 小隊長の面倒を千代はじめ三人の娘たちにたのむことにして一同が千代の乗合馬・・・ 織田作之助 「電報」
・・・ 訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらしいことを、閃光のように了解した。「わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ」 彼女の答えは平然としていた。そして、この頃外国でこんなのが流・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかったのである。何という錯誤だろう! 私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
一 倫理的な問いの先行 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そして、それを慰むべき手段は次第に潜行的に、意表に出てくるのだった。 線路には、爆破装置が施されているのではなかった。破壊されているのでもなかった。たゞ、パルチザンは、枕木の下へ油のついた火種を入れておくだけだった。ところが、枕木は炭焼・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・新しい巨大な器械が据えつけられた。選鉱場にも、製煉所にも。又、坑内にも。そして、銅は高価の絶頂にあった。彼等は、祖父の時代と同様に、黙々として居残り仕事をつゞけていた。 大正×年九月、A鉱山では、四千名の坑夫が罷業を決行した。女房たちは・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・其時日朝上人というのは線香の光で経文を写したという話を観行院様から聞いて、大層眼の良い人だと浦山しく思いました。然し幸に眼も快くなって何のこともなく日を過した。 夏になると朝習いというのが始まるので、非常に朝早く起きて稽古に行ったもので・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・こう学士が立話をすると、土地から出て植物学を専攻した日下部は亡くなった生徒の幼少い時のことなどを知っていて、十歳の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き母の髪まで結って置いて、それから小学校へ行った……病中も、母親の見えるところに・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫