・・・もう、何でも早う戦場にのぞみとうてのぞみとうて堪えられなんだやろ。心では、おうかた、大砲の音を聴いとったんやろ。僕は、あの時成る程離縁問題が出た筈やと思た。」「成る程、これからがいよいよ人の気が狂い出すという幕だ、な。」「それが、さ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減に教えてすましてしまうと、「うちの芸者も先生に教えていただきたいと言います」と言い出した。「面倒くさいから、厭だよ」と僕は答えたが、跡から思うと、その時からすでにその芸者は僕を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「先生マダ起きているな、」と眺めていると、その中にプッと消えた。急いで時計を見ると払暁の四時だった。「これじゃアとても競争が出来ない、」とその後私の許へ来て話した。 尤も二時三時まで話し込むお客が少くなかったのだから、書斎のアカリの消え・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 河鯉権守夫れ遠謀禍殃を招くを奈ん 牆辺耳あり防を欠く 塚中血は化す千年碧なり 九外屍は留む三日香ばし 此老の忠心きようじつの如し 阿誰貞節凜として秋霜 也た知る泉下遺憾無きを ひつぎを舁ぐの孤児戦場に趁く 蟇田素藤南面・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ ドストエフスキーを読んで落雷に出会ったような心地のした私は更に二葉亭に接して千丈の飛瀑に打たれたような感があった。それまで実は小説その他のいわゆる軟文学をただの一時の遊戯に過ぎないとばかり思っていたのだが、朧ろ気ながらも人生と交渉する・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が「ドウです内村君、あなたは『基督教青年』をドウお考えなさいますか」と問われたから、私は真面目にまた明白に答えた。「失礼ながら『基督教青年』は私のところへきますと私はすぐそれを厠へ持っていって置いてき・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・といった、若い上野先生の言葉が記憶に残っていて、そして、いつのまにか、その好きだった先生のことを思い出していたのであります。 すでに、彼女は、いくつかの停留場を電車にも乗ろうとせず通りすごしていました。ものを考えるには、こうして暗い道を・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・「はい、それは見せますにしましても、先生のお見立てではもう……」「そうです。もう疑いなく尿毒性と診断したんです! しかしほかの医者は、どうまた違った意見があるかも分りません」「それで何でございましょうか、先生のお見立て通りでござ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです。ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと、なんやこう、悩みや苦しみがみな忘れてしまえるみたい気イしますのんで、私好き・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・赤い色電球の灯がマダムの薩摩上布の白を煽情的に染めていた。 閉店時間を過ぎていたので、客は私だけだった。マダムはすぐ酔っ払ったが、私も浅ましいゲップを出して、洋酒棚の下の方へはめた鏡に写った顔は仁王のようであった。マダムはそんな私の顔を・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫