・・・これを持ち伝えておるからは、お前の家柄に紛れはない。仙洞がまだ御位におらせられた永保の初めに、国守の違格に連座して、筑紫へ左遷せられた平正氏が嫡子に相違あるまい。もし還俗の望みがあるなら、追っては受領の御沙汰もあろう。まず当分はおれの家の客・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 一群れの客を舟に載せて纜を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊った主従四人の旅人である。 応化橋の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中姥竹が欠け損じた瓶子に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ところが今年は剪刀で切ったり、没収したりし出した。カウィアは片側で済むが、切り抜かれちゃ両面無くなる。没収せられればまるで無くなる。」 山田は無邪気に笑った。 暫く一同黙って弁当を食っていたが、山田は何か気に掛かるという様子で、また・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ナポレオンの爪に猛烈な征服慾があればあるほど、田虫の戦闘力は紫色を呈して強まった。全世界を震撼させたナポレオンの一個の意志は、全力を挙げて、一枚の紙のごとき田虫と共に格闘した。しかし、最後にのた打ちながら征服しなければならなかったものは、ナ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・けれども、昨夜銭湯へ行ったとき、八百円の札束を鞄に入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。 農婦は場庭の床几から立ち上ると、彼の傍へよって来た。「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので・・・ 横光利一 「蠅」
・・・研究所へ着くなり栖方は新しい戦闘機の試験飛行に乗せられ、急直下するその途中で、機の性能計算を命ぜられたことがあった。すると、急にそのとき腹痛が起り、どうしても今日だけは赦して貰いたいと栖方は歎願した。軍では時日を変更することは出来ない。そこ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・彼らの武器は、彼らのとるべき戦法は、彼らの戦闘の造った文化のために益々巧妙になるであろう。益々複雑になるであろう。益々無数の火花を放って分裂するであろう。かかる世紀の波の上に、終にまた我々の文学も分裂した。 明日の我々の文学は、明らかに・・・ 横光利一 「黙示のページ」
・・・ 私たちのそういう騒ぎを黙って聞いていて口を出さない船頭に、一体音のすることがあるのかと聞いてみると、わしもそんな音は聞いたことがないという。蓮の花は朝開くとは限らない。前の晩にすでに開いているのもある。夜中に開くのもある。明け方に音が・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫