・・・ 月日の経つうちに悲しみもだんだん薄らぎ、しまいには時々思い出すぐらいのことで、叔母の親切にほだされ、いつしか叔母を母のように思うて日を送るようになったのでございます。 十八の歳から、叔母の家を五丁ばかり離れた小学校に通って、同僚の・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・それからかれこれ二月ばかり経つと、今度は生垣を三尺ばかり開放さしてくれろ、そうすれば一々御門へ迂廻らんでも済むからと頼みに来た。これには大庭家でも大分苦情があった、殊にお徳は盗棒の入口を造えるようなものだと主張した。が、しかし主人真蔵の平常・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・客観的事実の軽重にしたがって、零細な金を義捐してもその役立つ反応はわからない。一方は子どものいたいけな指が守れるのが直ちに見える。この場合のような選択について、有名なシルレルとカントとの論争が起こるのだ。道徳的義務の意識からでなく、活々とし・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・兵卒で、取調べを受ける場合に立つと、それが如何にも軽蔑さるべき、けがらわしいことのように取扱われた。不品行を誇張された。三等症のように見下げられた。ポケットから二三枚の二ツに折った葉書と共に、写真を引っぱり出した時、伍長は、「この写真を・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ どうすれば、こういう側面からのサヴエート攻撃の根を断つことができるか! 呉清輝は、警戒兵も居眠りを始める夜明け前の一と時を見計って郭進才と橇を引きだした。橇は、踏みつけられた雪に滑桁を軋らして、出かけて行った。 風も眠っていた・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・というような噂が塾の中で立つと、「ナニ乃公なら五十日で隅から隅まで読んで見せる」なんぞという英物が出て来る、「乃公はそんなら本紀列伝を併せて一ト月に研究し尽すぞ」という豪傑が現われる。そんな工合で互に励み合うので、ナマケル奴は勝手にナマケて・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・――北海道の俊寛は海岸に一日中立つて、内地へ行く船を呼んでいることは出来ない。寒いのだ! しかし何故彼等は停車場へ行くのだ。ストーヴがあるからだ。――だが、そればかりではなくて、彼等は「青森」とか、「秋田」とか、「盛岡」とか――自分達の国の・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶詞なきを同伴の男が助け上げ今日観た芝居咄を座興とするに俊雄も少々の応答えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・この病弱な私が、ともかくも住居を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 蜂谷の医院へ来てから三週間ばかり経つうちに、三吉は小山の家の方へ帰りたいと言出した。おげんは一日でも多く小さな甥を自分の手許に引留めて、「おばあさんの側が好い」と言って貰いたかったが、退屈した子供をどうすることも出来なかった。三吉は独・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫