・・・近代小説という大海に注ぐには、心境小説的という小河は、一度主流の中へ吸い込まれてしまう必要があるのだ。例えば志賀直哉の小説は、小説の要素としての完成を示したかも知れないが、小説の可能性は展開しなかった。このことは、小説というものについて、こ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・紺屋の白袴どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞り勝ちになり、結局、やめるに若かずと、その旨柳吉に言うと、柳吉・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・自分は小川の海に注ぐ汀に立って波に砕くる白銀の光を眺めていると、どこからともなく尺八の音が微かに聞えたので、あたりを見廻わすと、笛の音は西の方、ほど近いところ、漁船の多く曳き上げてあるあたりから起るのである。 近づいて見ると、はたして一・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・谷間には沼に注ぐ河があって、それが凍っているようだった。そして、川は、沼に入り、それから沼を出て下の方へ流れているらしかった。 下って行く途中、ひょいと、二人の足下から、大きな兎がとび出した。二人は思わず、銃を持ち直して発射した。兎は、・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・婦燭を執りて窟壁の其処此処を示し、これは蓮花の岩なり、これは無明の滝、乳房の岩なりなどと所以なき名を告ぐ。この窟上下四方すべて滑らかにして堅き岩なれば、これらの名は皆その凸く張り出でたるところを似つかわしきものに擬えて、昔の法師らの呼びなせ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・と四隣へ気を兼ねながら耳語き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、「金さん汝情無い、わたしにそんな・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・男はこれに構わず、膳の上に散りし削たる鰹節を鍋の中に摘み込んで猪口を手にす。注ぐ、呑む。「いいかエ。「素敵だッ、やんねえ。 女も手酌で、きゅうと遣って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気に重ねて、「ああ、いい酒だ、サルチルサン・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処を出づること能わじ。これあ、おれにも、もういちど地獄が来るのかな? と、ふと思う。おそろしく底から、ごうと地鳴が聞えるような不安である。私だけであろうか。「おい、お金をくれ。いくらある?」・・・ 太宰治 「鴎」
・・・ 誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいずること能わじ。」 晩秋騒夜、われ完璧の敗北を自覚した。 一銭を笑い、一銭に殴られたにすぎぬ。 私の瞳は、汚れてなかった。 享楽のための注射、一本、求・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・傾く夕日の空から、淋しい風が吹き渡ると、落葉が、美しい美しい涙のようにふり注ぐ。 私は、森の中を縫う、荒れ果てた小径を、あてもなく彷徨い歩く。私と並んで、マリアナ・ミハイロウナが歩いている。 二人は黙って歩いている。しかし、二人の胸・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
出典:青空文庫