・・・跡に忍藻はただ一人起ッて行く母の後影を眺めていたが、しばらくして、こらえこらえた溜息の堰が一度に切れた。 話の間だがちょッとここで忍藻の性質や身の上がやや詳細に述べられなくてはならない。実に忍藻はこの老女の実子で、父親は秩父民部とて前回・・・ 山田美妙 「武蔵野」
村の点燈夫は雨の中を帰っていった。火の点いた献灯の光りの下で、梨の花が雨に打たれていた。 灸は闇の中を眺めていた。点燈夫の雨合羽の襞が遠くへきらと光りながら消えていった。「今夜はひどい雨になりますよ。お気をおつけ遊・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ホラ晴た夜に空をジット眺めてると初めは少ししか見えなかった星が段だんいくらもいくらも見えて来ますネイ。丁度そういうように、ぼんやりおぼえてるあの時分のことを考うれば考えるほど、色々新しいことを思出して、今そこに見えたり聞えたりするような心持・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・春の、ホコホコと暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の中で茫然として無我の境に無我の詩を造る。画工さんはまず自己を救った。すべての物質的人事を超越している。この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫