・・・瞳を勝山通のアパートまで送って行き、アパートの入口でお帰りと言われて、すごすご帰る道すうどんをたべ、殆んど一文無しになって、下味原の家まで歩いて帰った。二人の雇人は薄暗い電燈の下で、浮かぬ顔をして公設市場の広告チラシの活字を拾っていた。赤玉・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生している紳士が言った。「そうだ! 上村君、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪の薄い、痩方の紳士が促した。「イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・八千円ばかりの金高から百円を帳面で胡魔化すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後で発覚る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦えるようだ。自分が弁償するとしてその金を自分は何処から持て来る? 思えば思うほど自分はどうして可・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 落葉を浮かべて、ゆるやかに流るるこの沼川を、漕ぎ上る舟、知らずいずれの時か心地よき追分の節おもしろくこの舟より響きわたりて霜夜の前ぶれをか為しつる。あらず、あらず、ただ見るいつもいつも、物いわぬ、笑わざる、歌わざる漢子の、農夫とも漁人・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・一つの行為をなすまいと思えば為さずにすんだのに、為したという意味である。しかし反省すればこれは不思議なことである。意志決定の際、われわれはさまざまの動機の中から一つの動機を選択してこれを目標としたのだ。しかしこの際それらの動機がそれぞれの強・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・しかし物力の必然でなく、人間の道徳的努力の協同によってそれを成しとげたい。何故なら、つくり上げた共同態はまた道徳的協同によって維持発展されなければならないからである。人性の徳性の花の咲き盛らないような、物的福利の理想社会とは理想社会の名に価・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・他の二人はきれいな髭を生した、疳癪で、威張りたがるような男だった。 彼等が最初に這入った小屋には、豚は柵の中に入ったまゝだった。彼等は一寸話を中止して、豚小屋の悪臭に鼻をそむけた。 それまで、汚れた床板の上に寝ころんで物憂そうにして・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・それは、鼻先きで飯櫃の蓋を突き落しかけていた家無し猫だった。寒さに、おしかが大儀がって追いに行かずにいると猫は再び蓋をごとごと動かした。「くそっ! 飯を喰いに来やがった!」おしかは云って追っかけた。猫は人が来るのを見ると、急に土間にとび・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・それで主人の真面目顔をしていたのは、その事に深く心を入れていたためで、別にほかに何があったのでもない、と自然に分明したから、細君は憂を転じて喜と為し得た訳だったが、それも中村さんが、チョクに遊びに来られたお蔭で分ったと、上機嫌になったのであ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・まち歩みを遅くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興じて笑い声を洩らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉越に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静であっ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫