・・・ するとその最中に、中折帽をかぶった客が一人、ぬっと暖簾をくぐって来た。客は外套の毛皮の襟に肥った頬を埋めながら、見ると云うよりは、睨むように、狭い店の中へ眼をやった。それから一言の挨拶もせず、如丹と若い衆との間の席へ、大きい体を割りこ・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・その石がぬっと半ば起きかかった下に焚火をした跡がある。黒い燃えさしや、白い石がうずたかくつもっていた。あの石の下に寝るんだそうだ。夜中に何かのぐあいであの石が寝がえりを打ったら、下の人間はぴしゃんこになってしまうだろうと思う。渓谷の下の方は・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・「腕を、拳固がまえの握拳で、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ突出した事があるんだからね。」「まだ、踊ってるようだわね、話がさ。」「私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・なくなれば、しゃっぽで、袴で、はた、洋服で、小浜屋の店さして、揚幕ほどではあるまい、かみ手から、ぬっと来る。 鴾の細君の弱ったのは、爺さんが、おしきせ何本かで、へべったあと、だるいだるい、うつむけに畳に伸びた蹠を踏ませられる。……ぴ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・処、どこで見当をつけましたものか、あの爺のそのそ嗅ぎつけて参りましてね、蚊遣の煙がどことなく立ち渡ります中を、段々近くへ寄って来て、格子へつかまって例の通り、鼻の下へつッかい棒の杖をついて休みながら、ぬっとあのふやけた色づいて薄赤い、てらて・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・きびらの洗いざらし、漆紋の兀げたのを被たが、肥って大いから、手足も腹もぬっと露出て、ちゃんちゃんを被ったように見える、逞ましい肥大漢の柄に似合わず、おだやかな、柔和な声して、「何か、おとしものでもなされたか、拾ってあげましょうかな。」・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ と唇を横舐めずって、熊沢がぬっと突出した猪口に、酌をしようとして、銅壺から抜きかけた銚子の手を留め、お千さんが、「どうしたの。」「おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、堪らない。あッは・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 這ったように、低く踞んで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっと擡げた。 口のあたりが、びくりと動き、苔の青い舌を長く吐いて、見よ見よ、べろべろと舐め下ろすと、湯葉は、ずり下り、めくれ下り、黒い目金と、耳までのマスクで、口が開いた・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ とちと粘って訛のある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂を入らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の婦の背後へ、ぬっと、鼠の中折を目深に、領首を覗いて、橙色の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、「大福餅、暖い!」 ま・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ きょろんと立った連の男が、一歩返して、圧えるごとくに、握拳をぬっと突出すと、今度はその顔を屈み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。 教授も堪えず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
出典:青空文庫