・・・焦げた百合の香ばしいにおいや味も思い出したが、それよりもそれを炒ってくれた宿の人々の顔やまたそれに付きまとうた淡いロマンスなどもかなりにはっきりと思い出された。その時分の彼はたとえ少々の病気ぐらいにかかっても、前途の明るい希望を胸いっぱいに・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・出臍の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向では阿蘇の山がごううごううと遠くながら鳴っている。「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。「鳴ってるぜ。愉快だな・・・ 夏目漱石 「二百十日」
根津の大観音に近く、金田夫人の家や二弦琴の師匠や車宿や、ないし落雲館中学などと、いずれも『吾輩は描である』の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくにはってない古べいの苦沙弥先生の居は、去年の暮れおしつまって西片町へ引・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・なぜ修身がほんとうにわれわれのしなければならないと信ずることを教えるものなら、どんな質問でも出さしてはっきりそれをほんとうかうそか示さないのだろう。一千九百廿五年十月廿五日今日は土性調査の実習だった。僕は第二班の・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・というはっきりした厳かな声がしました。 見るとそれは、銀の冠をかぶった岩手山でした。盗森の黒い男は、頭をかかえて地に倒れました。 岩手山はしずかに云いました。「ぬすとはたしかに盗森に相違ない。おれはあけがた、東の空のひかりと、西・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・二人の精霊と精女とは若人のうす笑をしながら云って居る事をおどろきの目を見はってきいて居る。第三の精霊は頭をかるくふって遠くに流れて居る小川を見つめるといきなり張りのある響く声で、第三の精霊 美くしい精女殿、お二人の御年寄――・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・その小包には切手が沢山はってあった。 十月二十九日。 昨夜スウェルドロフスキー時間の午前一時頃ノヴォシビリスクへ。モスクワでウラジヴォストクまでの切符を買う時ノヴォシビリスクで途中下車をするようにしようかとまで思ったところだ。新・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 長十郎は「はっ」と言って、両手で忠利の足を抱えたまま、床の背後に俯伏して、しばらく動かずにいた。そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほか・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「いや。それは知らぬと言うじゃろう。上役のものは全く知らぬかも知れぬ。とにかくあの者どもは早くここを立たせるがよい。土地のものと文通などをいたさせぬようにせい」「はっ」といって本多は忙がしげに退出した。 饗応の用意はかねてととの・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・我々は不断に我々の生活の上にかかっている運命に対してこの一瞬間のために、敬虔な疲れない眼を見はっていなくてはならぬ。一つの不幸も必ず何事かを暗示するに相違ない。それは呪わるべきものではなくて、愛せらるべきものである。 で、私は思った。い・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫