・・・ところがその娘の父に招ばれて遊びに行った一日の事だった、この盃で酒を出された。まだその時分は陶工の名なんぞ一ツだって知っていた訳では無かったが、ただ何となく気に入ったので切とこの猪口を面白がると、その娘の父がおれに対って、こう申しては失礼で・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・そうして、私たちは馬小屋へ駈けつけ、圭吾は署長にとらえられて、もう嫁のまっかな嘘が眼前にばれているのに、嫁は私のうしろから圭吾のほうを覗いて見て、『いつ、もどったのだべ。』と小声で言い、私は、あとで圭吾から二日前に既に帰っていたという事・・・ 太宰治 「嘘」
・・・供、その日、樹蔭でそっとネガのプレートあけて見て、そこには、ただ一色の乳白、首ふって不満顔、知らぬふりしてもとの鞘におさめていたのに、その夜の現像室は、阿鼻叫喚、種板みごとに黒一色、無智の犯人たちまちばれて、その日より以後、あなたは私に、胴・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ そうかと思うとまたある日本食堂で最近代的な青年二人と少女二人の一行が鯛茶を注文していたが、それが面前に搬ばれたときにこの四人の新人は、胡麻味噌に浸された鯛の繊肉を普通のおかずのようにして飯とは別々に食ってそうして最後に茶を別々に飲んで・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・しかし多くの蜂について従来知られている事実から推してこの残りの半分も、それの正当な権利者の巣に搬ばれたものと思ってもいいだろう。実際は他の巣の住民に横領されたかもそれは分らない。 私はこの蜂の巣を見付けたい、そしてこの珍奇な虫の団子がそ・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
・・・この音が伝わって行く際にエネルギーが搬ばれると考えると、少しも矛盾なく諸般の現象を説明する事が出来る。光は熱を生じ化学作用を起しまた圧力を及ぼして機械的の仕事をする。音も鼓膜を動かして仕事をし、また熱にも変ずる。しかるに此のごとく搬ばれ彼の・・・ 寺田寅彦 「物質とエネルギー」
・・・これは×××大将の方からも、入費が出たそうで……その骨揚の日には、私も寄ばれましたっけが、忰の筺の品を二品ほしいと仰ゃるんで、上等兵になった時の写真を二枚持ってまいりましたがね、その時の儀式と云うものが大変なもんでした。 ××大将は戦地・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・劇場に上演され、非常に大衆によろこばれた。 ところで作家のキルションは、その後、その汽罐車製造工場と、どんな密接な関係を保って来ているであろうか? キルションのその後の作品はこれに対する答の材料をわれわれに与えない。その汽罐車製造工場と・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
「春」と云う名のもたらした自然の賜物の中にすべての美がこめられて私達の目前に日毎に育って居る。 晴ればれと高い空を見ながら木蓮の白い花が青と紫の中に浮いて居るのを見ながら、私の心は驚くばかりの美を感謝もし讚えても居る。・・・ 宮本百合子 「繊細な美の観賞と云う事について」
・・・「ガンばれ」「うら切るとゲンコだぞ」「皆でカントクを睨みつけろ」等文句を綴って活字の一列はカエシをしている皆の間に、順にまわされた。十一時に終業すると、文選場で一同勢ぞろいをして、カントクのところへ残りの仕事をひっつかんでデモで押しかけた。・・・ 宮本百合子 「大衆闘争についてのノート」
出典:青空文庫