・・・同仁病院長山井博士の説によれば、忍野氏は昨夏脳溢血を患い、三日間人事不省なりしより、爾来多少精神に異常を呈せるものならんと言う。また常子夫人の発見したる忍野氏の日記に徴するも、氏は常に奇怪なる恐迫観念を有したるが如し。然れども吾人の問わんと・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・僕はなんという幻滅の悲哀を味わわねばならないんだ。このチョコレットの代わりにガランスが出てきてみろ、君たちはこれほど眼の色を変えて熱狂しはしなかろう。ミューズの女神も一片のチョコレットの前には、醜い老いぼれ婆にすぎないんだ。ミューズを老いぼ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全市の湧くがごとき人気を博した。 極暑の、旱というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・生命を極端に重んずるから、死の悲哀が極度に己れを苦しめる。だから向上心の弱い人には幸福はないということになる。宗教の問題も解決はそこに帰するのであろう、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりとは、よく其精神を説明して居るではないか。 岡村は・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ふるえる両手を膝の前に突いて、「おとッつさん、わたしの身の一大事の事ですから、どうぞ挨拶を三日間待ってください……」 おとよはややふるえ声でこう答えた。さすがに初めからきっぱりとは言いかねたのである。おとよの父は若い時から一酷もので・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 二六 その後、四、五十日間は、学校へ行って不愉快な教授をなすほか、どこへも出ず、机に向って、思案と創作とに努めた。 愉快な問題にも、不愉快な疑問にも、僕は僕そッくりがひッたり当て填る気がして、天上の果てから地の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 風説は風説を生じ、弁明は弁明を産み、数日間の新聞はこの噂の筆を絶たなかったが、いくばくもなく風説の女主人公たる貴夫人の夫君が一足飛びの栄職に就いたのが復たもや疑問の種子となって、喧々囂々の批評が更に新らしく繰返された。 が、風説は・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 何といっても、私が最も、年齢について、悲哀を感じたのは、その三十の年を過ぐる時でありました。「あゝ、もう青春も去ってしまったのか?」 四季について言えば、三十までは、春の日の光りの裡にまどろむ自然の如くでありました。柔らかな、・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・此の如きは実に人間として感覚の悲哀を感ずべき事ではあるまいか。 又一方より云えば、吾人の感覚に、何程多くの経験を意識する事が出来るか、殆んど数うべからざる程の多くの外界的刺戟に対して感ずる感覚は、極めて単調であるとしか見られない。要する・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・ 幻滅の悲哀は、人間生活の何の部面にも見出された事実ではあったが、殊に、各自の家庭に、最も、そのことを見出した。恋愛至上主義によって、結婚した男女は、いまや、幻滅の悲哀を感じて、いまゝで美しかったもの愛したものに、限りない憎悪と醜悪とを・・・ 小川未明 「婦人の過去と将来の予期」
出典:青空文庫