・・・千年の風雨も化力をくわうることができず、むろん人間の手もいらず、一木一草もおいたたぬ、ゴツゴツたる石の原を半里あまりあるいた。富士はほとんど雲におおわれて傾斜遠長きすそばかり見わたされる。目のさきからじきに山すそに連続した、三、四里もある草・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・並の席より尺余床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寝に就く事になった。幼ないもの共は茶室へ寝るのを非常に悦んだ。そうして間もなく無心に眠ってしまった。二人の姉共と彼らの母とは、この気味の悪い雨の夜に別れ別れに・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・と、僕はなぐさめながら、「君は、もう、名誉の歴史を終えたのだから、これから別な人間のつもりで、からだ相応な働きをすればいいじゃアないか?」「それでも、君、戦争でやった真剣勝負を思うたら、世の中でやっとることが不真面目で、まどろこしうて、下ら・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「これじゃアとても競争が出来ない、」とその後私の許へ来て話した。 尤も二時三時まで話し込むお客が少くなかったのだから、書斎のアカリの消えるのが白々明けであるのは不思議でない。「人間は二時間寝れば沢山だ、」という言葉は度々鴎外から聞いた。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもってわれわれの考えを後世に遺して逝くことができます。 ソウ申しますとまた・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・「この位稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出掛けられますでしょうね」と、笑談のようにこの男に言ったら、この場合に適当だろうと、女は考えたが、手よりは声の方が余計に顫いそうなので、そんな事を言うのは止しにした。そこで金を払って、礼を云・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 私は多くの不良少年の事実に就いては知らないが、自分の家に来た下女、又は知っている人間の例に就いて考えて見れば、母親の所謂しっかりした家の子供は恐れというものを感ずる、悪いという事を知る。しかし、母親が放縦であり、無自覚である家の子供は・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・終日、二階の一間で仕事をしていました。その仕事場の台の前に、一羽の翼の長い鳥がじっとして立っています。ちょうど、それは鋳物で造られた鳥か、また、剥製のように見られたのでありました。 男は、夜おそくまで、障子を開け放して、ランプの下で仕事・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 階下へ降りてみると、門を開放った往来から見通しのその一間で、岩畳にできた大きな餉台のような物を囲んで、三四人飯を食っていた。めいめいに小さな飯鉢を控えて、味噌汁は一杯ずつ上さんに盛ってもらっている。上さんは裾を高々と端折揚げて一致した・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ こうなると、人間というものは妙に引け身になるもので、いつまでも一所にいると、何だか人に怪まれそうで気が尤める。で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大阪鮨六片でやっと空腹を凌いで・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫