・・・ 灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴を仰いでいた。「雨こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 河は濁・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・それを見ようと思って、己は海水浴場に行く狭い道へ出掛けた。ふと槌の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて行く階段を、エルリングが修覆している。 己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇に手を掛けたが、直ぐそのまま為事を続けている。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・やがて私はだんだん心の空虚を感じて来て、ふと妻の方に眼をやりました。妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫