・・・ 七つの喉から銀の鈴を振るような笑声が出た。 第八の娘は両臂を自然の重みで垂れて、サントオレアの花のような目は只じいっと空を見ている。 一人の娘が又こう云った。「馬鹿に小さいのね」 今一人が云った。「そうね。こんな物・・・ 森鴎外 「杯」
・・・ 号砲に続いて、がらんがらんと銅の鐸を振るを合図に、役人が待ち兼ねた様に、一度に出て来て並ぶ。中にはまかないの飯を食うのもあるが、半数以上は内から弁当を持って来る。洋服の人も、袴を穿いた人も、片手に弁当箱を提げて出て来る。あらゆる大さ、・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ かたりおわるとき午夜の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休みとなり、妃はおおとのごもりたもうべきおりなれば、イイダ姫あわただしく坐をたちて、こなたへさしのばしたる右手の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間に設けたる夕餉に急ぐまろうど、・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・水の触るる所、砂石皆赤く、苔などは少しも生ぜず。牛の牢という名は、めぐりの石壁削りたるようにて、昇降いと難ければなり。ここに来るには、横に道を取りて、杉林を穿ち、迂廻して下ることなり。これより鳳山亭の登りみち、泉ある処に近き荼毘所の迹を見る・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・山路になりてよりは、二頭の馬喘ぎ喘ぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息籠もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪えがたし。嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘踝を没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・雨は降るし、遅くもなっているし、もうどうしても廃すのだ。その代り近いうちに填合せをしようと云うのである。相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で街道のぬかるみを駆けるので、ぴちゃぴちゃ音がした。 その時ツ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 灸は雨が降ると悲しかった。向うの山が雲の中に隠れてしまう。路の上には水が溜った。河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。「雨、こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・浮されて苦しみながら、ひるの中は頻りに寐反りを打って、シクシク泣ていたのが、夜に入ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を覚すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし霜月の雨のビショビショ降る夜を侵していらしったものだから、見事・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
一 ある雨の降る日、私は友人を郊外の家に訪ねて昼前から夜まで話し込んだ。遅くなったのでもう帰ろうと思いながら、新しく出た話に引っ張られてつい立つことを忘れていた。ふと気づいて時計を見ると、自分が乗ることにきめていた新橋発の汽車の・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫