・・・先夫人は養家の家附娘だともいうし養女だともいうが、ドチラにしても若い沼南が島田家に寄食していた時、懐われて縁組した恋婿であったそうだ。沼南が大隈参議と進退を侶にし、今の次官よりも重く見られた文部権大書記官の栄位を弊履の如く一蹴して野に下り、・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ところで、奥さん、そんな男と結婚するよりは、軽部君と結婚した方がなんぼう幸福だか、いや、僕がいうまでもなく、既に軽部夫人のあなたの方がよく御存知だ。聞きたくなかった。そんなお談義聞きたくなかった。私はただ、何ということもなしに欺されたという・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・それに、Tのところで飲むと、その若い美しい新夫人の前で、私はTからいろいろな説法を聴かされるのが、少しうるさかったからでもある。 互いに恋し合った間柄だけに、よそ目にも羨ましいほどの新婚ぶりであった。何という優しいTであろう、――彼は新・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ 夫人は微笑とともに振り向いた。そしてそれを私の方へ抛って寄来した。取りあげて見ると、やはり猫の手なのである。「いったい、これ、どうしたの!」 訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらし・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・この日も鷹見は、帰路にぜひ寄れと勧めますから、上田とともに三人連れ立って行って、夫人のお手料理としては少し上等すぎる馳走になって、酒も飲んで「あの時分」が始まりましたが、鷹見はもとの快活な調子で、「時に樋口という男はどうしたろう」と話が・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り炊煙棚引き親子あり夫婦あり兄弟あり朋友あり涙ある世界に同居せりと思える間、彼はいつしか無人の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。 彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂も、今そのなしつつある仕事に打ちこんでいる。僕は桂の容貌、かくまでにまじめなるを見たことがない。見ているうちに、僕は一種の壮厳に打たれた。 諸君! どうか僕の友のために、杯をあげてくれたま・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里を脱け出て上京し、職業婦人になって、ある新聞記者と結婚し、子どもを育て、夫を助けて、かなり高い社会的地位まで上らせ、自分も独学して、有名な文筆夫人になって・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ たとえば前イギリス皇帝の場合にしても皇位を抛ってまでもの、シンプソン夫人への誠実を賞賛するにおいて私は決して人後に落ちるものではないが、もしかりに前英帝にイギリスの政治的使命についての、文明史的自覚が燃えていたとするならば、それでもそ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・に上りきれば、そこが甲州武州の境で、それから東北へと走っている嶺を伝わって下って行けば、ついには一つの流に会う、その流に沿うて行けば大滝村、それまでは六里余り無人の地だが、それからは盲目でも行かれる楽な道だそうだ、何でも峠さえ越してしまえば・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫