・・・遅れてもとにかく帰って来れば好いが、――彼の考がそこまで来た時、誰かの梯子を上って来る音が、みしりみしり耳へはいり出した。洋一はすぐに飛び起きた。 すると梯子の上り口には、もう眼の悪い浅川の叔母が、前屈みの上半身を現わしていた。「お・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・年紀少くて孀になりしが、摩耶の家に奉公するよし、予もかねて見知りたり。 目を見合せてさしむかいつ。予は何事もなく頷きぬ。 女はじっと予を瞻りしが、急にまた打笑えり。「どうもこれじゃあ密通をしようという顔じゃあないね。」「何を・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・傾きし月の光にすかし見ればかねて見知りし大入島の百合という小娘にぞありける。「そのころ渡船を業となすもの多きうちにも、源が名は浦々にまで聞こえし。そは心たしかに侠気ある若者なりしがゆえのみならず、べつに深きゆえあり、げに君にも聞かしたき・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・札売の女が彼を見知り変な顔をした。その写真には、不実ではないが、いかにも女らしい浅薄さで、相手の男と自分自身の本当の気持に責任を持たない女のためにまじめな男がとうとう自殺することが描かれていた。そしてそういう女の弱点がかなり辛辣にえぐられて・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・富米野と云う男熊本にて見知りたるも来れり。同席なりし東も来り野並も来る。 こゝへ新に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立。すじ向いに座を構えたまうを帽の庇よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・同じ作者の『湊の花』には、思う人に捨てられた女が堀割に沿うた貧家の一間に世をしのび、雪のふる日にも炭がなく、唯涙にくれている時、見知り顔の船頭が猪牙舟を漕いで通るのを、窓の障子の破れ目から見て、それを呼留め、炭を貰うというようなところがあっ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・跛で結伽のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります。分化はいろいろできます。しかしその標準を云うとまず荘厳に対する情操と云うて・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・三椀の雑煮かふるや長者ぶり少年の矢数問ひよる念者ぶり鶯のあちこちとするや小家がち小豆売る小家の梅の莟がち耕すや五石の粟のあるじ顔燕や水田の風に吹かれ顔川狩や楼上の人の見知り顔売卜先生木の下闇の訪はれ顔・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・へ私は神田八丁堀二丁目五十五番地ふくべ屋呑助と申します、どうかお見知りおかれて御別懇に願います。まだ無礼な事申しちょるか。恐れ入りました。見受ける処がよほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるだろうから早う帰ってはどじゃろうかい。有り難う・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・ところが来て見ると、正当に育った子供の本能的な愧しさや気位や人みしりが、俄に彼女に堪らない思いをさせ始めたとしか思われない。母達が、折角来たのだからと勧めているうちに、滅入って泣出したのか。それとも――。私は歩き出し、ひどく心を捕えた少女の・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
出典:青空文庫