・・・僕はやっと体をじまげ、オペラ・グラスの度を調節した。同時に又突然向うのボオトのぐいと後ずさりをする錯覚を感じた。「あの女」は円い風景の中にちょっと顔を横にしたまま、誰かの話を聞いていると見え、時々微笑を洩らしていた。顋の四角い彼女の顔は唯目・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・――こう云う調子で、啣え楊枝のまま与兵衛を出ると、麦藁帽子に梅雨晴の西日をよけて、夏外套の肩を並べながら、ぶらりとその神下しの婆の所へ出かけたと云います。 ここでその新蔵の心配な筋と云うのを御話しますと、家に使っていた女中の中に、お敏と・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・たっているのを見てある感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁いある人にした上でなければ、その感じが当時の詩の調子に合わず、また自分でも満足することが・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・化鳥の調の冴えがある。「ああ、婦人だ。……鷺流ですか。」 私がひそかに聞いたのに、「さあ。」 一言いったきり、一樹が熟と凝視めて、見る見る顔の色がかわるとともに、二度ばかり続け様に、胸を撫でて目をおさえた。 先を急ぐ。…・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、半調戯うように、手どころか、するすると面を拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の膚馴れて、柔かに滑かである。「あれ、お気味が悪うございましょうのに。」 と釣込まれたように、片袖を頬に・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・というような調子でやって来て、帰った時にはその晩の勘定五円なにがしを払ってあったので、気の毒に思って、僕はすぐその宿を訪うと、まだ帰らないということであった。どこかでまた焼け酒を飲んでいるのだろうと思ったから、その翌朝を待って再び訪問すると・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・伝法院の唯我教信が調戯半分に「淡島椿岳だから寧そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、洒落気と茶番気タップリの椿岳は忽ち乗気となって、好きな事仕尽して後のお堂守も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。 淡島堂というは一体・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・何で忙がしいかと訊くと、或る科学上の問題で北尾次郎と論争しているんで、その下調べに骨が折れるといった。その頃の日本の雑誌は専門のものも目次ぐらいは一と通り目を通していたが、鴎外と北尾氏との論争はドノ雑誌でも見なかったので、ドコの雑誌で発表し・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・また、お姫さまは、二ひきの黒い、みごとな黒馬を皇子に貢ぎ物とせられたのです。 いよいよ、赤い姫君と黒い皇子とがご結婚をなされるといううわさがたちました。そのとき、一人のおばあさんの予言者が、姫君の前に現れて申しあげたのであります。このお・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・しかも、また、自らの作業を捗らせるための快い調でもあった。故に、喜びがあり、悲しみがあり、慰めがある。そして、狭小、野卑の悪感を催さない。なぜならば、これ、一人の感情ではなかったゝめだ。郷人の意志であり、情熱であった。これを、土と人とが産ん・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
出典:青空文庫