・・・あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗い方にいましたからあなたをはっきり見ることが出来ました。決してわたくしが陰険な事をいたしたとか、あなたを羂に掛けたとかお思いになってはいけません。わたくしは戸を開けるつもりで戸の傍に歩み寄って・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・己はいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。何だかこの往来、この建物の周囲には、この世に生れてから味わずにしまった愉快や、泣かずに済んだ涙や、意味のないあこがれや、当の知れぬ恋なぞ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・夢のような何とも知れぬ苦痛の感じが、車の輪の廻るように、頭の中に動いていた。あの何とも言えぬ心持は、この世界の深い深い秘密と関係している人の母の心であろう。しかしもうわたしにはあの甘い苦を持っている、ここの空気を吸う事は出来ぬ。わたしはもう・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆をしくもの、もって識見高邁、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。 曙覧の事蹟及び性行に関しては未だこれを聞く・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・近道が出来たのならば横手へ廻る必要もないから、この近道を行って見ようと思うて、左へ這入て行ったところが、昔からの街道でないのだから昼飯を食う処もないのには閉口した。路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所が・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・地図を見るのも面白い。ぜんたいここらの田や畑でほんとうの反別になっている処がないと武田先生が云った。それだから仕事の予定も肥料の入れようも見当がつかないのだ。僕はもう少し習ったらうちの田をみんな一枚ずつ測って帳面に綴じておく。そして肥料だの・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・よって鴎が白い蓮華の花のように波に浮んでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの帆や白く塗られた蒸気船の舷を通ったりなんかして昨日の気象台に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻るのを見て胸が踊るんだ。すっとかけぬけ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
「愛怨峡」では、物語の筋のありふれた運びかたについては云わず、そのありきたりの筋を、溝口健二がどんな風に肉づけし、描いて行ったかを観るべきなのだろう。 私は面白くこの映画を見た。溝口という監督の熱心さ、心くばり、感覚の方・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・ 三 庭へ廻ると、廊下の隅に吊るした鸚哥の籠の前にふき子が立っている。紫っぽい着物がぱっと目に映えて、硝子越し、小松の生えた丘に浮かんで花が咲いたように見えた。陽子は足音を忍ばせ、いきなり彼女の目の下へ姿を現わ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・それらの英訳が各国の翻訳論文集や、ミル、アダム・スミスとともに立ててある。ここは本屋でもある。正面の勘定台に男が二人、一人は立ったまま何か読んでいる。黒い細いリボンを白シャツの胸にたらした女が大きな紙の上で計算している。勘定台の後横から狭い・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫